第8章【Botticelli】ボティッチェリ3

 紅葉が鍛冶屋トールの裏口から飛び出して5分後。

「ふんふんふ、フーン♪」
 メモを取りつつ意気揚々と出てきたアーサーを、紅葉は後ろから羽交い締めにして捕まえた。

「痛てててて……おやおや、どうした怖い顔して。お嬢さんが胸ぐらなんか掴むもんじゃないよ」
 しっかり掴んでいないと、コイツは今すぐ逃げ出すかもしれない。これでもだいぶ弱く済ませている方だ。

「アーサーさん……探したんですよ」
「探した? どういうことだ、モイラ室長から場所を聞いたんじゃ無かったのかい?」
 え? 意外な言葉に、胸ぐらを掴む腕の握力がさらに弱まった。

「昼前に、室長から『紅葉さんが探してる』って連絡があって、トランシーバーでね。ここに行くって伝えといたはずだけど」
「………ウソ」
 まさか、そんな。ものすごい遠回りをしてしまったようだ。

「ハハ、ひょっとして自力で僕を探しあてたのかい!? 凄いバイタリティーだねえ、ハッハッハ」
 軽く一笑するアーサーに、紅葉は徒労でガックリと膝を落とした。

 

 3月9日、夕方4時半。

 市場が休みの水曜日の夕方は、人通りが非常に少ない。
 立ち話もなんだからと、アーサーの自宅に行くことになった。

「おうちにって……大丈夫なんですか」
「何がだい? 少なくともボクよりキミの方が力は強いよ。ボクァ片手で洗面台なんて壊せない」
「違っ………壊したのは……片手じゃなく、両手です!」
 紅葉はムキになって、なんの言い訳にもならない反論をした。

「まあ、『メロウムーン』が休みじゃなきゃ、あそこの2階を借りたんだけどね」

 市場内をずんずん進むアーサーに、紅葉は必死で付いていく。中央広場のテーブルを通るとき「知り合いに見られたく無い心理」が、何となく働いてしまったが、マルセルもマドカも幸いすでに居なくなっていた。

 市場の奥の、さらに奥へ。南の出口へと抜けていく。

「──待って、あそこが『ボティッチェリ』ですか」
「フフ、さっきの鍛冶屋で聴いてただろ」

 市場の南出口からすぐの通りに、レストランが1軒あった。看板もドアも小さくオシャレで、一見すると普通の家だ。窓辺には鮮やかな花壇、壁には蔦などが生えていて、華やかかつ可愛いらしい。2階建てだが、オレンジの三角屋根がとても大きく、階数以上に高く見えた。

 ここがレストラン『ボティッチェリ』……たまに聞く有名店だが、紅葉は一度も食事をしたことはない。果たして「甲冑像」とはどんな物なのか。手がかりである「戦斧」とは──? 彼女は威嚇した眼で店を見つめていたが、アーサーは華麗に無視して先を進んだ。

「今はいい。どうせ今日は閉まってる」
「で、でも……」
「こっちにも用事があってね。後にしてくれ」

 アーサーは己の狐の尻尾をパサッと揺らし、東区の奥地「貧民街」へと入っていった。

 

 

 東区、貧民街。

 市場やボティッチェリがあった場所までとは違い、ペンキやレンガがあちこち剥がれ、木材はたわみ釘はゆがみ、増設を繰り返してムチャクチャに伸びた建造物が縦にも横にも広がっていた。空気は湿って淀んでおり、あちこちから水や酒、腐った食べ物、煙の臭いが漂っている。

 今日は洗濯日の水曜みずようだ。多くの洗濯物たちが、高層の建物の間にロープで吊り下がってる。服や靴や下着からは、ぽたぽたと水がしたたり落ち、気を抜くと頬や腕にかかってしまう。服はみなどこかしら破れていて、年老いた婆ばが木箱に座り、布の切れっぱしを繕っていた。

 物でゴチャゴチャした裏路地では、他にもさまざまな人物と行き違う。下着姿で寝ている女に、太鼓を叩く裸足の少年。気ままに時を過ごす人々の中で……歳は10代半ばだろうか、巻鹿族の人形術師の少女が、自宅の窓から腕と人形を突きだし、練習していた。

《ヤァ、ヤァ、ジュディ。ボクの愛しいパイはどこ?》

 彼女の指が動くと同時に、人形の口がパクパク動く。帽子を被った、男性の髭面人形だった。人形師は唇ひとつ動かさず、人形だけが魂を持つかの如く振るまっている。アーサーはポケットから1ドミー硬貨を取り出し、親指をピッと弾いて飛ばした。

《パイだ、パイ、ジュディ。ボクの愛しいパイだ! あっはあああッアハハハハッ!》

 1ドミーは部屋の中へと飛んでいき、床に落ちてクルクル転がった。人形師はドミー硬貨に目もくれず、ひたすら両指で人形を動かしている。彼女のキャミソールから見える腕と指は、黒痣と青痣と絆創膏だらけだった。

「…………ご自宅はどこですか?」
 紅葉は焦って聞いた。ここに長いこと居ると、頭がおかしくなりそうだ。
「もうすぐだよ」
 返事代わりにアーサーの狐の尻尾がグルンと周った。建物と建物の狭い間をスルリと抜けると、土地が開けた場所に出た。

 

 彼の自宅アパート『ジュード』。

 紅葉が想定していた雰囲気とだいぶ違って、そこはちょっとした公園のようだった。

 貧民街にしては開けた土地にあり、手前には大きな庭の広場が、奥には古びた建物がある。アパートは横に長い2階建ての建物で、元は白亜らしき壁は腐ったドブ鼠のような色をしていた。庭の手前にある看板には、赤いペンキで「Hey,」と右上に書かれている。

 簡素なフェンスで囲まれた庭は意外と広く、レモンやオレンジの木があちこちに植わっている。南の隅にある井戸の周りでは、実洗熊族の姐さんたちが上半身むき出しで、ジャブジャブと太盥で洗濯物を洗っていた。彼女らの邪魔しないよう、北側で子供たちが枝を振り回して遊んでいる。

 アパート前のロングベンチには年寄りたちが集まっており、欠けたマグカップで深煎りのチェリーコーヒーを啜っていた。

「バアちゃん、元気かい?」

 年寄りの中で最も老人と思われる、何重にもおくるみを着こんだ老婆に、アーサーが駆け寄った。彼の祖母だろうか。アンタもっと家に帰りなさいよと周りが囃し立てる中、歯が全て欠けた老女はニィーと笑って、大事な孫の手をそっと撫でた。

 紅葉は何とも言えず、その様子を遠巻きにじっと見ていた。

 

「……さ、部屋は2階だよ」

 挨拶を済ませたアーサーに連れられ、外玄関をトントン上がった。セメント製の床の上には古びた木製スノコが敷かれ、どこも一部が割れて腐っており、油断すると足を挟みそうだった。

「バアちゃんちがすぐ下の階。昔は両親と弟2人で住んでいたんだけどね。いつの間にか、家族はふたりだけになっちまった」

 家族──紅葉は、ターナー家や、コリン駅長、酒場や下宿のみんなを、自分の家族のように思っている。

 ショーンが帝都の魔術学校へ行った時は、すごく寂しかったけれど、その間にコリンがサウザスに移り住んできたり、太鼓隊に入ってオッズに可愛がってもらった。しばらくしてターナー夫妻も帝都へ越してしまったけど、代わりにショーンが戻ってくれた。

 色んな別れを経験しても、出会いと再会も多かったから、今までそれほど寂しくなかった。もし、別れだけが続くのならば、それはきっと……すごく悲しい。

 

「ハハ、そんな神妙な顔する必要ないよ」

「………」
「さ、どうぞお入り」

 なんとなく新聞社の延長のような汚さを予想していた彼の部屋は、思ったより片付いていた。

 部屋は2手に分かれ、手前側は土間のキッチンになっており、靴を脱いで上がる奥の部屋は、古い絨毯が敷かれた居間となっている。昔、食卓として使っていただろうローテーブルには、執筆用のタイプライターやレポート用紙に分厚い辞書、レモンビールの空き瓶が何本か置かれ、灰皿の中にはナッツの袋が入っている。

 部屋の隅には、たくさんの新聞や雑誌が積まれていて、その上に古いクマのぬいぐるみがチョコンと乗っていた。ぬいぐるみには、黒いバッテンのボタンがお臍と瞳に縫い付けられている。奥の窓辺にある小さなガラスの花瓶には、埃が積り、何年も花を差してないようだった。

 居間の右手にある大きなベッドには、褪せてはいるものの、多彩色の刺繍で包まれたクッションや毛布が置かれ、家族で寝るには少々狭いが、1人で使うには充分だった。

 アーサーは、定位置と思われる奥の座布団に座り、紅葉はローテーブルの手前に座った。悪いけど飲み物は出せないよ、とアーサーに言われ、不要です、と紅葉は伝えた。紅葉は、膝の上に乗せた布鞄にフライパンがあるのを思い出し、アーサーの顔を見て、念のためぎゅっと握った。

 

「ふー、話を始める前に、紅葉ちゃん、オレのことはどうやって探したんだい?」
「マル……砂犬族の方に、匂いを嗅いで探してもらいました」
「なるほどね」
「彼は、東区は難しいけど、北区と西区なら居場所が分かると」 

 砂犬族か。とひとりごちるように上を向いた。

「オレたちフェルジナンド家は、森狐族だが……狐の中でもかなり鼻が利く方でね、臭い東区でも捜索可能だ」
 紅葉は思わず、部屋の匂いを嗅いでしまった。

「で、オレも事件後、得意の鼻でサウザス中を探してるが、町長の匂いは見つかってない。もちろん警察でも優秀な嗅覚班が捜索している。結果は同じだろう」
「つまり町長は……サウザスには居ないと」
「そうだ」

(生死を問わず、サウザスにはいない……?)

(それが本当なら、犯人もとっくに逃げており、見つけ出すなど不可能じゃないか……?)
(ああ、でもコスタンティーノ兄弟の件はどうなったんだろう)
(あと、アントンが拘束されてると言ってた、ユビキタス先生は?)

 グルグルと思考が紅葉の頭上を巡る。
「──まあ、それを踏まえて話をしよう」
 アーサーは、静かに自分のハンチング帽を脱ぎ、ぬいぐるみの頭の上にそっと置いた。

 紅葉は武者振るいし、舐められぬよういっそう背筋を伸ばして身構えた。