「————っ!」
ショーンは目を覚まし、仰向けで倒れていることに気づいた。
空は青々と冴え渡り、地面は黄土と茶土が混ざったような色をしている。風が吹き、頰に髪が当たる。すぐ右横を向くと、遠くでクラウディオが仁王立ちで立っていた。視線の先は、あの仮面の男だろうか。反対側を向くと、ペーターが近くにうつ伏せに倒れて、こちらを見ていた。
「はあっ、ハア……ッ」
どうもあれから、状況は全く変わってないようだ。ショーンの眼球は相変わらずグルグル廻っていて、体中の細胞が循環し、再生産している感じがする。本来、失神呪文は1日近く効果があるはずだが、葉っぱを齧った影響からか、すぐ復活できたようだ。
「……………ショー……さん……っす」
ペーターが、微かな小声で名前を呼んだ。長い耳が地面にペタリと付いて、目元は心配げに俯いている。ショーンはすぐにでも大声で返そうとしたが、ハッとなって口をつぐんだ。仮面の男に気づかれちゃまずい。まだ失神している事にしなければ。
〔聞こえるか?……ペーター〕
ショーンは口を限りなく動かさず、ものすごく小さな声で音を発した。ペーターは、ぱちぱちと瞳を閉じて目配せをした。さすがウサギだ。感度が違う。
〔……音を立てず、話すぞ……あっちに聞こえないように〕
仮面の男が、ウサギ並みの聴力を持たぬことを祈りながら、ペーターに細い音波のような小声を送った。ペーターは瞳をパチパチさせ……変な間隔でしばたいている。妙に瞼を閉じる時間が長い……これは。
〔ま、待って、そうか電信符号か。最初からもう一度頼む……〕
電信符号。長音と短音を組み合わせて文章を送る。警察はこの符号をさらに複雑に暗号化して使っているが、ショーンは学校で習った最もベタなものしか知らない。幸い、ペーターが送ってきたのは、ショーンでも理解できる一般的な符号だった。
〔は、い〕
しぱしぱと瞳が瞬く。森の囁きのような会話がスタートした。
〔は、っ、ぱ、あ、り、ま、す、か〕
〔葉っぱ? 僕が齧ったやつか?〕
〔は、い〕
〔待って、気を失う前に握りしめてて……あった、落ちてた〕
幸い、手の届く範囲に落ちていた。ショーンはそろそろと左手を伸ばし、自分の歯型がついた葉っぱの柄を中指と薬指でそっとつまみ、またそろそろと腕を戻した。クラウディオの方に視線を移すと、戦況は変わらず、ジリジリとした緊張感が漂っている。
〔取ったぞ。これでどうするつもりだ〕
〔ジブンもそれ齧って、ここから抜けます〕
〔えっ、待ってくれ、相手は魔術師だ。どうやって戦うつもりだ?〕
〔分からないっす。少しでもおふたりの囮になれれば……〕
〔だめだよ!〕
ショーンの呼吸が速まった。
囮なんて……。ペーターのような警官にとっては、自分の命より任務を全うするのが大事なのかもしれない。けれど、ショーンはもう任務が失敗し、ユビキタスが連れ去られても良いとすら思っていた。
いま現在、5人の警官と2人のアルバが磁力に囚われ、遠くで警官1人と紅葉が失神している。もし、磁力と失神をショーンが呪文で解いたとして、束になってアイツに飛びかかったとしても──果たして敵う相手だろうか。
(敵う……そんなの叶うか……?)
スーアルバ並みのマナの持ち主なのは明らかだ。この場はいったんやり過ごし、州警察やアルバ統括長と相談して、ヤツが誰なのか突き止めてから、大規模な作戦を練るなりしないと。今この部隊で戦うなんてとても無理だ。みんなの命が無事なうちに、速やかにユビキタスを連れて何処かに立ち去ってくれたら……!
ショーンはギュッと目をつぶり、ペーターの顔から背を背けた。
(ショーンさん……!)
彼が会話に応じてくれなくなった。葉っぱも渡してくれないかもしれない。ペーターはギリッと歯を食い縛り、自身の制服の左胸ポケットで潰れている葉っぱのことを思った。胸の周りには鉄のワイヤーでできた防具が、磁気の力に屈し、上半身をずっしり締め付けている。
(まずいっす……)
相手は魔術師……ここにいる誰よりもおそらく強い。ナイフはある。暗器もある。しかし、どれも鉄製だ。唯一鉄ではない飛び道具はコルク・ショット。これは銃が厳しく規制されているルドモンド大陸で、警察が持つことを許された唯一の拳銃だ。
軽量拳銃【Cork-shot】コルク・ショット。
銃槍はチタンとコルクでできており、非常に軽く、表面にはコルクガシ葉の装飾が彫られている。古くは蝋、現在はゴム製の銃弾となっており、弾の中心には真鍮眼鏡の材料である《生命が直接触れると、ルドモンドで最も重い鉱物よりも、重たく感じる物質》が仕込まれている。
この銃弾が撃ち込まれると、ゴムが裂けて露出し、体内に物質が直接入りこむ。すると瞬く間に強烈な重みを感じ、その場から動けなくなってしまう。重みで苦しむのは弾が当たった本人のみで、他人には元の体重しか感じない。これで安心して捕縛できる寸法だ。ゴム製の銃弾は、鉛や鉄の弾と比べて致死性はかなり下がっているものの、警官は常に相手の脚に打ち込めるよう訓練している。
ルドモンドに住むほとんどの生物——人や獣を問わず——有効な銃だが、例外はもちろんある。マナ含有量の多い相手には通用しない。アルバの場合、ゴム弾相応の痛みは走るが、肝心の重みを感じることはない。名探偵のシェリンフォード・ホルムは、若い頃に犯人と間違えられ、警官に13発ほどコルクショットを打ち込まれたが……結局体から弾を取り出さないまま、一生涯の勲章とした。普通は重みに耐えられないため、手術ですぐに摘出される。
(奴にコルクショットは効かない……鉄も無力……あとは……己のコブシっすか)
ペーターは苦々しく自嘲しながら、地面に顔を擦り付けた。
そうしてショーンとペーターが諦めようとしていた時、クラウディオと仮面の男に動きが起きた。
「フッ……磁場か……」
クラウディオは片頬をクイと上げ、地面の砂を革靴の裏でジャリと擦った。仮面の男はグッと腰を落として身構えた。
「貴君は——磁場の神様は、いったい誰だと思うかね?」
(神様?)
いきなりどうしたと、ショーンとペーターは頭に疑問符を浮かべた。仮面の男も理解できずに、左へ35度首をひねった。
ルドモンドで神様といえば、一週間の曜日を司る《七曜神》や、生死や願望を司る《大四神》が有名だ。他にも地母神や先祖神はいるが、磁場や磁石の神様というのは、ショーンが知るかぎり存在しない。
「もし磁場神がいるとしたら、思うに大地の神——マルク・コエンではないかと思う」
一週間のうち、地曜日を表す《地の神マルク・コエン》。
土と家と司り、豊穣、貯蓄、守護の神様である。頭のはげた老父であり、腰は曲がり、節くれだった両手には麦の穂を持ち、肩には鳥が止まっている。農民の拠り所である神様で、土地と家を守る守護神でもあり、彼の持つ麦は尽きることなく民の飢えを満たすという。
「磁場は磁石に通じ、磁石は石に通じ、石は大地とともにある。だから磁場の神様は、私はマルク・コエンだと思うのだが、いかがだろうか、貴君」
「…………」
仮面の男は、頷いたのか、警戒したのか、ほんのわずかに首を下げた。
「大地の神マルクは、我が桃白豚族のあいだでは最も敬うべき存在でね。分かるかね? 豚は豊穣——大地に転がり、よく食べよく肥え——農民の飢えを満たす生き物だ」
クラウディオ・ドンパルダスはもう一度、地面をジャリッと擦った。
「我らが同胞を表す神が、この場にふさわしい神と同一だとは、何たる幸運」
彼のマントが風に揺られて捲られ、キュートな豚の尻尾がちらりと見える。
「地父神マルクよ、民を守りたまえ」
彼は手と手を重ね合わせて、神に祈った。
(あいつは何をやっているんだ?)
仮面の男は右に顔をかしげ、ショーンも肩の力が抜ける。
しばし祈っていたクラウディオが、急に重ねた両手をグッと前に突き出した。彼の両腕は槍のような形を作っている。腕は豊かな大地、麦の色——まるで、大地神マルク・コエンが両腕に持つ麦の穂の色のように、強い黄色の炎で輝いた。
【神の槍は地をも穿つ! 《グングニル》】
神の閃光は、仮面の男に向かって、地響きとなって轟いた。