「とりあえずここから出ましょう」
砂犬族の新米警備員マルセルは、マドカの散らかしたゴミを片付けて別れの挨拶をし、紅葉とともにその場を後にした。
マドカはあのまま突っ伏してベンチに寝ている。紅葉は、隣人として一応心配したものの、「いつもああなんで、大丈夫ですよ」と、彼がマドカの部下らしく頼もしいことを言ってくれた。
「それで、匂いで探すなんてできるの? マルセル君」
「はい。アーサーさんの香りは嗅ぎ知っているので……紙とインクの染み込んだ、森狐族の匂いです。あと、ミントコーヒーとレモンビールと……オレンジの香りもよくしてます」
紅葉は昨日飲んだミントコーヒーの味をフッと思い出した。
市場から出た2人は、中央通りの車道を渡り、市場向かいにあるサウザス出版社の前へ到着した。2時間前と同じように、玄関のガーゴイルが迎えてくれる。
マルセルは石像の前に立ち、クン、と鼻を動かした。
「……新聞社には、帰ってないみたいですね」
「外にいるのに分かるんだ……!」
紅葉がいくら鼻をひくつかせても、市場から漂う生鮮食品の匂いしか感じない。
「市場や貧民街はすごい臭いなんで、探すのはちょっと無理なんですよ」
マルセルが東区の方面に右手をかざした。手を挙げたまま、少しずつ体の向きを北へ変えていく。
「でも、北区か西区にいるのなら……あっと」
彼が、北区の通りのある一点をキュッと見つめた。今まで低くしなだれていた、尻尾と耳がピンと立っている。
そこには……紅葉もよく知る店だ。店の前には、土栗鼠族の小さな子供──フレヤとボルツが遊んでいる。
「えっ……『鍛冶屋トール』? なんで?」
学校で友達を作れなかった紅葉にとって、あの店には、ショーン以外で唯一の、紅葉の友人がいる。
「……あそこです。紅葉さん」
マルセルが、ゆっくりその店を指差した。
「あのお店に、アーサーさんがいます」
「では、オスカーさん。レストラン『ボティッチェリ』にある甲冑は、あなたの制作したものでお間違いないですね?」
「………ああ、そうだ」
鍛冶屋トールの応接室は、望まぬ訪問者によって、ただならぬ気配に包まれていた。母のエマは唇をへの字に曲げて、対面にいる彼を固く見つめている。リュカは、なぜ息子の自分が呼ばれたか分からないまま、父オスカーの後ろに立っていた。
「……正確には、部下たちと共同で作ったが…………私の作といえるだろう」
「あの甲冑は、大きな戦斧を持っていますが、あれも貴方の作ですか?」
「……そうだ」
「実際に切れますか? ──例えば、鰐の尻尾などは」
「…………どういう意味だね……?」
オスカーは静かに腕を組み、ソファに座っている。エマは夫の真後ろで、般若のような形相でソファの革地を掴んでいた。リュカは大量の汗が背中に流れるのを感じながら、動向を見守っている。
一昨日の夜7時、鍛冶屋一家はとあるレストランへ食事に行った。
レストラン『ボティッチェリ』。
東区では珍しい、本格的な高級料理を出すレストランである。シェフは元々、西区のレストラン『デル・コッサ』の副料理長で、昼は一品ランチ、夜はコース料理を提供をしている。
場所は市場から南東の裏手にある、オレンジ色で三角屋根の2階建ての建物だ。1階は通常のテーブル席が、2階には豪華な個室がある。
一流鍛冶師オスカー・マルクルンドは、この店に飾る甲冑像を頼まれた縁があり、一家はいつも2階個室へと通される。出迎えてくれるのは、砂鼠族のジャン・コスタンティーノ。彼が『ボティッチェリ』のオーナーだ。
『お久しぶりです、オスカー先生。いやあ、お子さんも大きくなって』
『……急に来てすまなかった。いつも予約でいっぱいなんだろう?……』
『いえいえ、気にしないでくださいませ。いつでもお待ちしていますので』
ジャンは鼻をヒクヒクさせて、両手に着けた白手袋で先導しながら、一家を個室へと案内した。
『あれ……どうしたんすか、これ』
創業当時から、個室の奥に設置されている「斧を持つ戦士の甲冑像」──もちろん鍛冶屋トールで製作したものだ──が、どういう訳か、階段を上がってすぐの個室ドアの手前に置かれていた。いつもは店の守り神のように部屋の奥で佇む甲冑像が、今日はなぜか廊下で来訪客を威圧している。
『………なぜここに置いておく……危ないじゃないか』
『ああ、スミマセン。少し床が痛んでおりまして! 修理までご迷惑をおかけいたします。お子さまもご注意くださいね』
そうか。ならしょうがない。
オスカーたちは納得し、すぐに忘れて美味しい夕食をいただいた。夜8時には食べ終わって、店を出て……新聞によると、その日の夜9時から、同じ個室で町長たちが会食をした。
「僕の調べだと、あの日の夜『ボティッチェリ』2階を使ったのは、あなた達一家と町長一派の2組だけだ」
新聞記者アーサー・フェルジナンドが、青インクが染み込んだ2本指を突き出した。
「何か、変わったことはありませんでしたか?」
紅葉は激しい怒りが湧いてきた。
ブワリと体熱が上がり、血液が逆流する覚えがした。
アーサーは、きっとリュカ目当てで、あの鍛冶屋にいる。
つまり、リュカの親友である、ショーンを調べているに違いなかった。サウザス唯一のアルバである、ショーンの手がかりを探っている。
何か重大な情報を知ってるはずなのに、自分だけコソコソ情報を得ようとしている。町長も無事か分からない。犯人の見当もついていない。ショーンも、紅葉も、事件の当事者になりかけ、今も危険に晒されているのに。新聞社の仲間にも何も教えず、誰にも知らせずに自分だけが。
それがどれだけ周囲に迷惑をかけているのか、いったい彼は理解しているのだろうか──!
「…………紅葉さん?」
怒りに赤く燃えた紅葉は、薄幸そうなマルセルのショボくれた瞳を見て……シュンと冷水がかけられた気がした。
「ご、ごめんね…………マルセル君」
「……なんで謝るんですか?」
「えっと、ほら、急に怖い顔しちゃったでしょ?……びっくりしたよね」
冷静になってみれば、紅葉はアーサーを怒る資格も、そんな立場でもない。急に制御できない怒りが沸き起こってしまって、自分でも少し驚いた。……やっぱり事件の影響で、精神的に参っているのかもしれない。
「気にしないでください……マドカさんの方が何倍も怖いですよ」
ふふ……と柔和に微笑むマルセルを見て、紅葉はだいぶ心が落ち着いた。彼はこう見えて意外と、気骨ある人間なのかもしれない。
(そう、冷静に。落ち着いて! 私もマルセル君を見習わないと!)
バチン! と己の頰を叩き、紅葉は新たに気合いを入れ直した。
体をキュッと向き直し、鍛冶屋トールに視線を送る。
「ありがとう、マルセル君。次に会えたらお礼するね、じゃあまた後で!」
マルセルは小さく右手と尻尾を振って、紅葉を送り出した。
「あれ?」
鍛冶屋トールのドアノブに「closed.」と書かれた看板がゆらゆら揺れていた。
「な、何で? どうして!?」
「うるせー、ブス!」
「あら紅葉さんじゃない。こんにちは」
店の前で遊んでいたフレヤとボルツが、礼儀正しく紅葉に挨拶してきた。
「こんにちは……お店、どうして閉まってるの? 今日は水曜だよね?」
「シー! 大事なお客様が来たからお休みなんですって。今は入っちゃダメなのよ」
「お客さま……?」
「ええ。お客様が帰ったら、また鍵を開けるらしいわ。それまで待っててちょうだいね」
フレヤが水色のプリーツスカートをふりふり振りつつ、紅葉にクローズ事情を伝えた。待つなんて冗談ではない。
「う、うん……フレヤちゃん、そのお洋服かわいいね」
「ホント?そうなの!ウフフ、かわいいの!」
少女フレヤは、瞳をキラキラさせて喜んだ。
「先月買ってもらったの!どう?いいでしょ!」
「うんうん、すっごいかわいい!」
「ちょっと揺すっただけでね、ホラッ、フワッと広がるの!」
「ステキだねー! お姫様みたい!」
何せこの間からスカートをアピールしては、スルーされ続けてきたのだ。絶賛して褒める紅葉に、フレヤの嬉しさはひとしおだった。
「ねぇフレヤちゃん、私ね……お店の中に入りたいの。お願いできるかな?」
紅葉は一かバチかで、ドアの鍵を持っているはずのフレヤに頼んだ。
「フーム………そうね、いいわよ! ママにはナイショね!」
あっさりと少女は陥落した。スカートのポッケから鍵を取り出し、店の鍵穴をかちゃりと回す。
「アーッ! いけないんだ、いけないんだー!」
と騒ぐボルツの首を締め上げながら、少女フレヤは快く、笑顔で紅葉を送り出した。
「………おじゃましまーす……」
声にならない挨拶をして中へ入った。ギシッと堅い床が鳴る。しんとした暗い店内の中、1階左奥の応接室が少し空いていた。重苦しい気配がドアの奥から漂っている。どうやら、新聞記者アーサーはもちろん、リュカも夫妻も、全員そこにいるようだ。
紅葉はそっと息を殺して、ドアの傍で聞き耳を立てた。
「──なるほど。普段と違って『甲冑』が廊下の脇にあったと」
アーサーの声がする。
(甲冑?)
紅葉は話の内容に困惑した。ショーン関係の話じゃないのか。
「……あの甲冑は、そんな簡単に動くものではない……当時も床板とボルトをしっかり固定した……そうそう楽には取り外せない……」
親方のオスカーと対話をしている。どうやら予想していた話と違ったようだ。
「だが移動していたということは、床からは外せるんですよね。斧は取り外し可能ですか?」
「…………まあ、ボルトを外せば……」
「その斧を使って、町長の尻尾は切れますか?」
「そんなこと……!」
バン! と机を叩く音がした。
「……そんなことをジャンがするなど!……ピエトロも! あの店を出すのに、ふたりがどれだけ苦労したか……!」
常に寡黙で優和なオスカーの、珍しい激昂だった。紅葉の肌にも緊張感が冷たく走る。
「コスタンティーノ兄弟は、全部で6人兄弟います」
しかしアーサーは冷静に受け流した。
「まず、次男のピエトロと三男のジャンが『ボティッチェリ』のオーナーで、それぞれシェフとウエイター。さらに長男と四男と五男が、市場を握る3兄弟だ。つまり、あの夜に町長と会合していた人物」
「……だからどうした!」
アーサーは声色ひとつ変わらない。帽子を目深にかぶり両手を組んで、説明する様子が目に浮かぶ。
「そして、6人目。それが町長の元第3秘書のエミリオ・コスタンティーノ──彼は3年前に、階段の上から “偶然” 転倒し、腰骨が粉砕しました。未だに歩くことができません」
しん、と、室内が静まりかえった。
紅葉も冷気を浴びたような震えが止まらなかった。
「………そんなこと、警察も承知しているでしょう」
オスカーの妻エマが喋った。
「仮に、彼らと町長に何か因縁があったとしても……州警察が既に調査しているはずです!」
オスカーの代わりに果敢に相手をしている。
「新聞記者のあなたが、事件を究明する必要なんてないわ…!」
怒気を含むエマの圧力に対し、アーサーは次の言葉で、軽く一笑に伏してしまった。
「ハハハ、僕は“事件の解決”ではなく“事実を調査”しているだけですよ。奥さん」
それは新聞室長のモイラが言っていたことだ。アーサーは昨日その言葉を鼻で笑ったくせに。
「事実の調査も、大事な記者の仕事なんでね」
エメラルドの瞳で、ウインクしてる様子が目に浮かぶ。やっぱりコイツは信用ならない。紅葉の怒りが再燃してきた。
「まあ、お怒りのようですから、最後にひとつだけ。あの甲冑の戦斧で、町長の尻尾は切れますか?」
「……鰐族の尻尾は強靭だ。それこそ……付け根など、固い机にでも載せて、何度も叩き切らないと無理だろう」
「切れる、という事ですね」
「あくまで取り外したら……だ。」
「では、階段脇に置かれた甲冑の戦斧に、ぶつかって尻尾が切れる可能性は?」
「ぶつか…?……ないとはいえないが、甲冑の方もタダでは済まない……確実に変形しているはずだ…………」
それを聞いて、紅葉はスクッと立ち、足音を立てぬように素早く裏口へと向かった。
そのまま鍵を開け、疾風のように鍛冶屋を後にした。
心臓がバクバクする。
すぐには呑み込めないほど、大きな情報を得た。
町長は呪文で窓から姿を消したのではないのか。
レストラン『ボティッチェリ』。
そこに事件の手がかりがある。