紅葉は唾液が完全に乾ききり、喉が完全にカラカラになった。
窓辺に置かれた埃だらけのガラスの花瓶のようだった。
自分の角の表面が、ジワジワと干からびて痛みを感じる。古いフライパンを布鞄の上からギュッと握った。路地から聴こえてくる太鼓のかすかな音だけが、彼女の心の支えだった。
「みんぞく…じょうか…………」
「君は、ものすごく強靭な民族だよね。列車に轢かれて生き残った……力も、強い」
彼の赤髪が部屋に差し込む夕陽の赤と共に埋もれ、エメラルド色の瞳だけがギラギラと煌めいていた。
「アーサーさんは………わたしの民族を知ってるんですか?」
「いいや。ルドモンドには少数民族がたくさんいる。強い……危険な族もたくさんね」
——昨日、新聞社で壊した洗面台。
12歳の時、ショーンがアントンに校庭で突き飛ばされて、怪我を負ったことがあった。紅葉は怒りで我を忘れ、アントンの体を片手で持ち上げ、校庭の遠くへと投げ飛ばした。アントンは骨折して全治2ヶ月の怪我を負い、ショーンの両親がどちらもすぐに治して、大事にはならなかったが——
「……わたし………は」
「ま……これは話半分で聞いてくれ。親父もこのあたりはボカしていた」
「う、はい…」
「結局、分からないことが多いんだ。『アルバの能力を確かめる』っていうのも、ただの推測」
「推理ではなく?」
「推理か、名探偵シェリンフォード・ホルムのように! カッコよく推理できたらいいけどねえ……ただの推測だよ」
アーサーは肩で笑っていたが、まだ何か情報を隠しているようにも見えた。
紅葉が一番知りたいことは、ショーンやターナー家が組織に関係してるかどうかだ。けれど、これ以上粘ってもアーサーは何も明かさない。そう肌が感じていた。
「それで組織は……現町長の事件と、何か関係があるんでしょうか」
「うーん」
彼はゆるく腕組みし、言うか言うまいか迷うポーズを取った。
「これは俺の “推測” だが……」
ぬいぐるみに置いておいたハンチング帽を、アーサーは再び被り直した。
「複数の人間の思惑が交錯している。それがたまたまあの日に合致した……町長は敵の多い人柄だからね」
夕陽はもういよいよ姿を消し、夜の帳がやってくる。
「……さ、もういいだろう。帰りたまえ。オレも行くところがある」
紅葉はアーサーに促され、静かにひとりアパートから出た。昼間、外にいた住民たちは、みんな部屋へと帰ったのか、閑散としていた。夜風が肌寒い。
紅葉は鞄の中から古いフライパンを取り出した。
朝は、この重い鉄器が頼りになると思っていたけれど、アーサーの情報を聞いた今では、あまりにも弱くてちっちゃくて、子供騙しのおもちゃのようだ……これでは何も守れない。
ちゃんとした、武器が欲しい。
自分の身と——ショーンを、守れるぐらいの。
病院から本が発見されて2時間後。
役場に戻ったショーンとクラウディオは、ユビキタスの【星の魔術大綱】を読み込む作業に当たっていた。
彼の魔術書には、他のページにも様々な書きつけがあり……厄介なことに全て暗号で書かれているようで、ふたりとも非常にうんざりした。
「いやはや、こんなものを解いたところで、ウブな青年による恋い焦がれたポエムが出てくるのがオチさ……」
ショーンは珍しく、心の中でクラウディオに同意した。暗号自体は、押韻を利用した一定のアナグラムで、魔術学校で教わる程度の簡単なものだが、行毎に異なる変数が段階的な変化をつけて規則的に当てられており……つまり解読は非常に骨が折れる作業だった。
「フー……私は学生時代、暗号の授業がほんとうに嫌いだった」
「奇遇ですね、僕も嫌いでした」
「暗号で隠すくらいなら、最初から書いて残すなと言いたい!」
「そのとおり!」
ふたりは頭から煙を吹き出しながら、黙々と作業にあたった。
昼が過ぎ日も暮れる頃、病院とヴィクトル宅の家宅捜索が終わったとの報告が来た。結局、成果は出ず、「彼は事件とは無関係だろう」というブーリンの意見に、ショーンは胸を撫で下ろした。
ユビキタスは今なお黙秘を貫いており、州警察に護送されて明日クレイト市に行くらしい。ショーンは最後に気になっていたことを警部に聞いた。
「どうして昨日の時点でユビキタス先生を拘束してたんですか。何か証拠でもあったんでしょうか?」
「タレコミがあってね、警備員から」
「タレコミ?」
「町長室の窓から鉄格子を外したのはユビキタスの命令だから、彼が怪しいと……半信半疑だったがね」
「警備員って誰が──」
「警部! 暗号はもう州警察でお願いしたい。クレイトならその道のプロがいる」
「いいだろうクラウディオ。お疲れ様! ショーン君もご苦労だった」
「いや、何のなんの! 私も事件が無事に解決してくれて嬉しいよ、警部殿」
クラウディオは仕事が完遂したかのように寛いでいる。
「………結局、町長はどこにいるんでしょうか」
「さあ、嗅覚班が今もなお探しているが、サウザスでは見つかってないな」
「はあ……」
ショーンはまだ胸の奥がモヤモヤしていた。
事件は…まだまだ終わっていない。けれど暗号で煙を出した頭ではうまく考えがまとまらず、警部に帰宅を促された。
「ショーン君、この件は口外しないでくれたまえ。情報はこちらから発表する。特に、新聞記者の取材はすべて断ってくれ」
「わかりました」
「役場の連中が帰る頃だから、紛れて出ていくといいだろう」
「はい……」
ショーンは、縁の広い帽子と黒いマントをかぶらされて、真鍮眼鏡もいったん外し、一斉に帰宅する役場職員の波に紛れて外に出た。
玄関外には、張っている記者と野次馬がそれなりにいたものの、無事バレずに、うまく抜けた。
もうすっかり夜が暮れている。西区の建物と建物の間から、手がかりのあった校舎が見えた。
犯人はユビキタス先生……
なのにオーガスタス町長は、サウザスで見つからない……
——誰か他に連れ去った人間がいるんじゃないか?
「ショーン!」
そのことに気づいて、大声をあげようとした瞬間、後ろから名前を呼ばれた。