第9章【Arbor】アルバ3

「ショーン!」

 声の主を探すと、頬を紅潮させた紅葉が、出版社のガーゴイル像の前で駆け寄ってきた。
「紅葉……いま帰りか?」
「うん、ちょうど終わったとこ……会えてよかった……」
 ……会えてよかった、なんて、普段の紅葉からは出てこない言葉に、ショーンの尻尾はクッと反応した。

「いっぱい伝えたいことがあるの」
 紅葉が近寄り、ショーンの両手をギュッと握った。彼女の頬は、茜色の、紅葉のように染まっている。
「つ、伝えたいこと……?」
 ショーンは尻尾を無駄にパタパタさせる。

「うん、事件について。情報をいっぱい仕入れてきたの」
「あ、そう……」
 長い尻尾がしょん…となった。

「帰ろう、ショーン。ラタ・タッタに」
「ん」
 北大通りを足早にふたりで歩く。
 握った手はすでに外れていたが、心はふたりとも暖かかった。

「そういや、僕のことよくわかったね、真鍮眼鏡も外してるのに」
「えっ……だって、子供の頃は眼鏡してなかったじゃない」
「そういえばアルバになってからか」

 アルバとして日々眼鏡をかけ続けたせいか、この姿に馴染んでしまって昔の姿を忘れていた。
「でも、後ろ姿でもすぐ分かったよ」
「本当?」

 ショーンは一瞬、手を繋ぎたいと思ったけれど、酒場の入り口が見えたので、尻尾をニュッとくねらせるだけで済ませた。

 

 

 夕飯はショーンの部屋に持ちこんで、食べながら報告会をすることになった。

 献立はパプリカと人参ピクルスの缶詰と、カボチャの種いりライ麦パン、アーモンドとクルミのお菓子袋。

「ショーン、先にどっち飲む?」
「菊水茶かな」
 お茶は、甘酸っぱい杏桃茶とスッキリした菊水茶の二本立て。
 ショーンは、ぎしぎしと黒パンを齧りつつ、昨夜から続く町長の失踪事件について、一連の出来事を紅葉に話し始めた。

 町長室の窓に残っていた呪文痕、ユビキタスの町長時代に外された鉄格子、病院の書斎でユビキタスの【星の魔術大綱】の発見、校舎の窓枠で練習していた痕跡と、ヴィクトルが語る彼の過去——。

 ユビキタスの名前が出るたび、紅葉はどんどん意気消沈し……うな垂れた様子で、ティースプーンでぐるぐる回した。

「…………先生、そんなことになってたんだ……」
「ん…明日クレイトへ護送される」
「そっか、先生はアルバを目指してたんだ……そうか、そうなんだ…!」
「ど、どうした、急に」
 何か気づいた様子で拳を振りまくる紅葉に、若干の恐怖を覚えながらショーンは尋ねた。

 

「実は——」

 紅葉は、今日体験した話を丁寧に説明していった。
 まずは、新聞社で2週間前のコリン駅長の記事をもらったこと。市場でのマドカとマルセルとの会話。マルセルが嗅覚でアーサーを探し当てたこと。鍛冶屋トールで聞き耳を立てた内容。(強引に侵入した事実はうまい具合に誤魔化した)

 そして、一番肝心なアルバの組織の話……これはショーンの様子を窺いながら、特にゆっくり話した。ユビキタス校長が所属していることを伝えて、話を終えた。

 紅葉の話が終わっても、ショーンはしばらく答えず……アーモンドを菊水茶に浸しながら1粒ずつ噛んでいた。

「…………………アルバ崩れの組織か……なるほどね」
「し、知ってるの……?」
 恐る恐る、紅葉が聞いた。

 ショーンは苦そうにアーモンドを噛み締め……やがて、諦めたように後ろへ手を組みながら背伸びをし、ギチッとベッドを揺らした。
「まぁ……存在してても、おかしくないんじゃないか」
 それは、彼女の予想からしたら、あまりに軽い返答だった。
「それだけ?」

「────僕は、アルバは基本的に信用してない」

 キッパリと、羊角をまっすぐにして、宣言するようにショーンは告げた。

「僕が信用してるのは……ほんの一部の人間だけだ」
 長く重い呼吸を、肺の奥から吐き出し、ゆっくりと下を向いて睫毛の影を瞳に落とした。

 彼の心情は紅葉にはわからない。けれど、ふと……ショーンが魔術学校を卒業して、すぐにサウザスに帰ってきたのを思い出した。煌びやかな帝都に住んでいたら、もう田舎町には戻ってこないと思っていたのに……。

「そうか、アルバの組織か……だとすると……」
 ショーンが前で腕を組み、ごにょごにょと呟き始めた。
「何か知ってるの?」
「ん……昨日聞いたことに関係あるかも……」

 ショーンはしばらく考え込んで、紅葉の問いには応じてくれそうになかった。彼女は所在なく目の前の食糧を口に運んだ。お腹が満たされると、焦る気持ちが幾分和らいでくる。菊水茶を飲み口元をスッキリさせた。

 夕食のピクルスと黒パンを食べ終わり、アーモンドの袋が空になった。クルミの小さな袋をふたりで分け合う。こんな気分の暗い状況下でも、白い砂糖がまぶされた焼きクルミは、香ばしくて甘かった。

 

 酒場が休みの水曜夜は、ラタ・タッタで唯一静かな夜だ。

「ええと、何て言ってた新聞記者の……ラスカルだっけ?」
「アーサーだよ」
「そうそう、アーサー。一度会って喋ってみたいな」
 ショーンは小さな御猪口に温めた杏桃茶をトプトプ注ぎ、喉と唇を潤した。

「そうだね。私には教えてくれなかった事も、ショーンになら話すかも」
「ソイツはそんなに秘密を握ってるのか?」
「……分かんないけど、10年調べてたってことでしょ。まだまだ情報を持ってるはずだよ」
「まあ、そうか…」

 休みの日も太鼓の練習を欠かさない紅葉だが……頭の中は事件とショーンのことでいっぱいで、今日は叩くのを忘れていた。彼女の脳内では、アーサー宅や新聞社での出来事が、何度も繰り返し再生されていた。

「アーサーさん、町長のことは嗅覚で町中調べたみたい。『町長はサウザスにいない』って」
「……そうか」
 嗅覚の件でマルセル君の顔も一緒に思い出す。嗅覚であれだけ探せるって、とても便利だ……。

「………そうだ。呪文で人探しはできないの……?」
 アルバの場合、どうなるんだろう。
 嗅覚であれなら、呪文ならもっと大規模な捜索ができるんじゃないか?

「捜索か」
 ショーンの真鍮眼鏡がキランと光った。
「一般的な方法は3つある」
 彼は指を3本、紅葉に向けてビッと立て、フンと鼻息を荒くした。

 

 

「まず1つ目は《熱探知》。熱源を真鍮眼鏡に表示させる方法だ」

「熱……」
「哺乳類や鳥類といった民族は、体温が高いから明るく表示される。爬虫類や両生類のような体温が低い民族は、逆に暗く表示される」
「へー!」
「まあ目に見える景色全部を表示させるから、火のかかったコンロとか熱くなった家の壁とかも、全部熱として見えるんだけどね」
「え……じゃあ難しいじゃん」

「人の探知だけに絞るなら《マナ探知》という方法がある。でもめちゃくちゃ難しいんだ。スーアルバ並みの実力がないと」
「難しいってどうして? 呪文痕とは違うの、ホラ町長室の窓辺にあった……」
「全然違う!」
 ショーンが憤慨しながら説明した。

 彼曰く、マナは極々小の微粒子で、普段は体内でばらばらに自由に移動している。呪文を詠唱する時にだけ、体の一箇所へと移動させて集中させる。集中させたマナは光り輝き、肉眼で見えるようになる。そして呪文を詠唱後、体外に排出されたマナはさすがに眼では見えないものの、一度光ったせいか真鍮眼鏡のレンズには簡単に映るようになる。これが『呪文痕』の正体だ。

「へえ、呪文を唱える前と後じゃ、見つけやすさが違うんだ……」
「そう。体の中をぐるぐる移動してるし光ってない。しかもアルバ以外はほんのちょびっとしかマナがない。いかに探すのが難しいか解るだろ?」
「………あッ!」
 その昔、ショーンの母から体内のマナ量を告げられたのを、紅葉は唐突に思い出した。

『——紅葉ちゃんのマナはゼロみたいね——』
 それは、紅葉の民族を探るために、何かの呪文を唱えて調べたもので……残酷な結果にガッカリして、あまり落胆するので後でクッキーをもらったのだが……あのとき使用していた呪文が……

(そうか、あれ《マナ探知》の呪文だったんだ……)
 子供の頃の思い出の一部が、きれいに氷解した気分だった。
「どっちにしろ、これは人探し用の呪文じゃない。マナ探知なんて僕も使えないし忘れてくれ」

 

 ショーンは咳払いをして、説明に戻った。

「2つ目は《鋭敏化》。己の嗅覚や視覚、聴覚を鋭敏にして探る。まあ──シンプルだ」

「いいじゃない、便利そう!」
「視覚は真鍮眼鏡を使って簡単にズームができる。だけど嗅覚や聴覚なんかは、民族的に元から優れてないと効果的じゃない。僕ら羊猿族は、嗅覚も聴覚もかなり平凡だから、この方法も難しい」
「え、えぇ……大変だね」

「結局のところ、熱探知にしろ鋭敏化にしろ、街中で誰かひとりを見つけるのは難しいんだ。周囲に何もない荒野とかなら、すぐに探知できるけど」
「色んな人の情報が混ざっちゃうからね」
「そうそう」
 どちらも有用で便利な呪文だろうけど、町長探しの目的と微妙に合わないのがもどかしい。

 

「で、3つ目。《白い足跡》という呪文。あらかじめ対象に足跡呪文を残しておけば、どこへ行こうと跡を辿れる」

 ショーンが、ひときわ神妙な顔で、静かに厳かに、紅葉に伝えた。
「足跡って……マナの?」
「そうだ」
「……でもそれって、先に呪文を唱えていないと無理だよね?」
「もちろん」
「っ駄目じゃん!」
「これが授業で教わった方法なんだ!」
「どれも駄目じゃんッ」
「だから捜査が難航している!」
「も~~~~っ!」
 紅葉は地団駄を踏み、ドンドンドドンと、太鼓のようにリズムを取った。

 3月9日水曜日みずようび、時刻は夜の10時半。
 いつもなら太鼓隊の最後の演奏が終わる時刻だ。トロトロに熟した桃杏茶の、甘い香りがそろそろ切れる。お湯の中で美しく咲く菊水茶の花々が、茶瓶の底でベチャリとへばりついていた。

 

「はーっ……話を戻そう」
 ふたりとも疲れが溜まっている。かつてない出来事に巻き込まれ、体力的にも精神的にも消費し切っていた。

「えっと、町長の話だったっけ」
「そうそう町長の話だ…………僕はまだオーガスタスは生きていると思ってる」
「何か根拠はあるの?」
「無い。んでも、あんな尻尾をわざわざ切っておいて、殺したりするだろうか……」
 ショーンは昨日見た金鰐族の尻尾の、切り株のように太い断面図を思い出していた。

「ユビキタス先生が犯人だとしても……たったひとりで誰にも知られず、尻尾を切って列車に吊るして、本体をサウザスのどこかに隠したことになる」

 警部から聞いた情報によると、ユビキタスは事件当日、朝8時に学校へ出勤し、夜行性民族のための授業まで行った。退勤したのは夜10時。そこから数時間かそこらで単独でやってのけたとは……ちょっと現実的には考えられない。

「誰か他に手を貸した人間がいるはずなんだ。町長をサウザスの外へ連れ去った人間がいる」
「……それが組織の人間だと?」
 紅葉が一番伝えたかった、組織の話へと戻ってきた。
「可能性は高い…………その話が本当ならね」
 ショーンの眼鏡の奥が鈍く光った。シンと部屋が静まり返る。

 

「う、嘘だと思うの……?」
「さあ」
「…………っ」
 紅葉はアルバのことはよく分からない。秘密組織とやらがアーサーによる壮大な虚言だったとしても、まったく判断がつかないのだ。

 けど、ユビキタスが元々アルバを目指していたという事実で、組織の話の信憑性は高まった。でも、オーガスタスを連れ去った目的は何なんだろう。サウザスでも乗っ取る気……? もうワケが分からない。

 紅葉は頭をクシャクシャしながら、鉄のスプーンで小鉢をコンコンと叩いた。コンコンコンコン……ショーンの尻尾の先までピリピリ響いた。

「そんなイライラするなよっ!」
「〜〜~っ、だってもどかしいじゃない! 全然わかんないんだもん!」
「そんなに町長の居場所を知りたいのか?」
「居場所っていうか、私は事件の解決を……っ」
「——紅葉!」
 イライラでもどかしい顔をしている紅葉に、ショーンは、グッと顔を近づけた。

「紅葉。ここらで目的をはっきりさせよう」

 ショーンが、珍しく、真面目な顔をして彼女に言った。

 

 部屋に持ち込んだ夕食は、最後のかけらも余さず食べきった。
「——も、目的?」
「ああ」
 ぼちぼち日付が変わる。明日は、紅葉が好きな風曜日だ。

「僕たちは図らずも、この事件に2人とも深く関わった」
「うん……」
「多くのことを見聞きしたけど、結局分からないことも多い。警察しか知り得ない情報はたくさんあるし、その新聞記者だってそうだ」
「……それは」
「僕はただのアルバだから、警察に協力するのも限界がある……【帝国調査隊】になれば話は別だけどさ」
 紅葉に至ってはただの一般人だ。新聞社のおかげで多くの情報を得られたけど、彼女自身の力は本当に限られている。

「一番怪しいユビキタス先生は明日クレイトに行ってしまう。町長の残りは見つかってないけど……たぶんサウザス外にいる。アーサーに組織のことは後で詳しく聴くとして……この先、調査するにしても、僕ら2人ができる事はもうそんな多くないよ。いつもの仕事だってあるんだし。紅葉は今後どうして行きたいんだ?」
「………私は」

 紅葉は燃えるように心臓が熱くなった。
 穏やかに過ぎていった日常は、とうに破壊されてしまった。
 過去の自分の謎を掘り起こしたこの事件は、これで終わってしまうのだろうか。
 自分の小さな角が——冷たい。

「私は…………強くなりたい
「強く?」
「ショーンは、私の力を知っているでしょ」
「……そうだっけ」
 ショーンは一瞬とぼけてみたが、心当たりがある出来事がフッと脳内を通りすぎた。

「私には、人より強い力がある……だから、それを活かさなきゃ」
 紅葉が自分の両手をじっと見ていた。ショーンの額から、大きな汗粒がジワリと湧いた。
「活かすって、何をするんだよ」
「そうだね……まずは、武器が欲しい」
「武器…………なんで」

「——ショーンの身を、守りたいから」

 

 水曜の夜は、サウザスでもっとも静かな夜だ。
 いつもと変わりのない静寂。
 だけど、危険はすぐ頰の傍で刃をチラリと見せている。
 ここからもう一波乱起きるに違いない。
 本能がそう訴えていた。