[意味]
ルネサンス時代のイタリアの画家。本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペピ(1445年〜1510年)
[補足]
Botticelliは渾名であり「Botticello(小さな樽)」に由来する。ルネサンス期を代表する画家で、フィリッポ・リッピを師とし、メディチ家に仕えた。代表作は『春』『ビーナスの誕生』、システィーナ礼拝堂の壁画『モーゼの試練』など。写実にとらわれない優美な曲線や文学性を特徴とする。ボッティチェリの表記が主流だが、他にもボッティチェッリ、ボティチェリなどの訳も。
3月9日、水曜日のお昼どき。
サウザスは昨日、事件が起きたとは思えないほど、活気ある町に戻っていた。
特に役場の前がすごく混んでいる。建物にはまだ入れないけど、職員が玄関先に机を出して、書類の届出や本の貸し借りを受け付けていた。長蛇の列に並ぶ人々に向け、物売りが小さい太鼓を叩きながら周囲を練り歩いている。さらにその周りは野次馬によるヒソヒソ話。中央通りは普段よりもサウザス警察が巡回していた。
ショーンに大したお土産もなく、アーサーの行方も分からず、紅葉は出版社のガーゴイルの前にうなだれて、道ゆく人の群れをボーッと見ていた。
「けんけんぱ、けんけんぱっ!」
「お姉さーん、棒付きキャンディーはいかが? タフィーもクッキーも何でもあるよ〜」
「あいよーばあちゃん、サウザス駅かい? 了解了解超特急だよ!」
雑踏の音を聴いていると、だんだん自分がちっぽけな存在に感じてくる。向かいの道では、人の良さそうなサウザス警官のおじさんが、街灯の下で酔い潰れた爺さんの介抱していた。
「ジイさん、ここで寝こけるんじゃないよ。家はどこだい?」
「ウボエぇ……っ」
「あーもう吐いちゃったよ参ったな。誰か水を持ってきてくれぇー!」
そのすぐ傍を、引き締まった体躯のラヴァ州警官たちが早歩きで去っていった。彼らは酔っぱらいの醜態など気にも留めない。全てを疑うような鋭い瞳は、事件の手がかりを必死で掴もうとする顔だった。
紅葉は一連の光景を見て、心が苦しくなって胸を押さえた。やっぱりこんな……田舎町の小娘の、警察でもアルバでもない素人が、事件を解決しようだなんて……滑稽な夢物語かもしれない。
昨夜の暗いシャワー室で立てた決意が、太陽の元でぐらぐら揺らぐ。ぎゅっと胸を押さえていたら、グーっとお腹が鳴った。
「……お腹すいた」
市場へゴハンでも食べに行こう。
紅葉はとぼとぼ歩き、市場中央のベンチへ向かった。
市場は水曜休みの店が多いが、簡単な串焼きくらいなら売っている。まばらな買い物客の中、とある見慣れた人物が、ベロンベロンに酔っぱらって真っ昼間から酒盛りしていた。
「あれ〜もみじじゃぁ〜〜〜ん!」
「………………マドカ?」
灰耳梟族のマドカ・サイモンが、紅葉に向かって右手をぶん回していた。向かい側にいる部下らしき人物は、げっそりと耳を垂らし、萎びた尻尾がベンチから垂れ下がっている。
「紅葉も座んなよー、おねえさん奢っちゃうよおぉ〜」
「……マドカ、もうお昼だよ。寝なくて大丈夫なの?」
「そうですよマドカさん……」
「ヤダヤダ、あと30ぷん〜〜〜〜!」
大きなミミズクの酔っぱらいは、レモンビールの瓶を振り回していた。
ここで、ルドモンド大陸の週制度について説明しよう。
一週間は7日あり、順に、金、銀、火、地、水、風、森曜日となっている。
それぞれの曜日には、名前に応じた特徴の神様がついており、ルドモンドの人々は、曜日と神様に合わせた行事や行動を取っている。
例えば、プロポーズや結婚式は、愛と美の神である銀曜に。家の竣工式や豊穣祭は地曜日に。大掃除や洗濯は水曜日が良しとされ、火曜には運動を、森曜には勉強を。そして旅の出立は風曜日。
休日も、それぞれ仕事の神に合わせた休みが設けられている。火曜日は鍛冶場や鉱山が、水曜日は市場や酒場が。金曜日は銀行に商店、森曜日は役場と学校がお休みだ。
残念ながら週に休みのない職もある。例えば郵便局や駅は、風の神様を信仰しているが、基本的に休みはない。同様に警察や消防、病院などもシフト制で働いている。新聞社も休みがないが、旅と情報の神である風の神様が祀られている。旅人に決まった休みは不要なのかもしれない。
このような週と曜日の概念は、ルドモンドのほとんどの地区で通用しているが、一部の少数部族や小さい村では独自習慣を築いているところもある。
ちなみに、アルバは伝統的に森の神様を信仰しているが、休みなく働く “高貴な” 存在とされているので、ショーンには休みがない。シフト休みも、当然ない。
紅葉は、鶏肉とネギの串焼き、鯖の缶詰、ライムサイダーを買い、マドカと部下の人がいる席についた。
「見てええ、この子もみじチュアあん! 前にゆったでしょお、下宿の子! 太鼓隊してんの!」
「……はじめまして」
紅葉は、部下らしき人物に向けて頭を下げた。酔っ払いはビール瓶を振り回し、お互いを紹介させる。
「んでこの子はー、はいっ! マルセルちゃあん!」
「こ、こんにちは」
ゲッソリと頬のこけたマルセルが、ぺこん、と小さく顔を下げた。彼は青年……というより少年に近い。あどけなさが残る風貌をしている。
「同じ警備の子なのお、趣味はぁ〜ジョギングらって! 仲良くしてね!」
「ええと……マルセルさんも夜勤なんですか?」
「いえ。僕は夜行性じゃないんで……砂犬族です」
細い体躯で、毛艶もあまり良くない彼は、砂漠で何時間も突っ立っていたかのような、貧相な姿をしていた。
「そうなんだ……」
紅葉は自分の民族を言おうか戸惑っていたら、「僕は、紅葉さんのこと知っています」と、彼の方から申し出てくれた。
「学校も一緒に通ってでした。学年は僕が3つ下です。……紅葉さんはすぐ卒業しちゃいましたけど」
「わっ、そうなんだ!……ごめん、覚えてなくて、ごめんね」
「いえ、直接お話したことは無かったので……」
紅葉は、本当の年齢は不明だが、便宜上ショーンと同い年として学校へ通っていた。12歳の途中から入学し14歳で卒業した。事件のことは学校中の生徒が知っていて、終始、遠巻きに見られ……結局、学校で親しい友人はできなかった。
「へーそっか。ふたりは同じ時期に学校行ってたんだ」
御年28歳のマドカは6本目のレモンビールをグビッと飲んだ。
「紅葉さんが入学した時は、てっきり僕ら下級生と一緒に授業受けると思ってました。そしたら普通に上級生の授業受けてて……ビックリでした」
「えっ、そう見えてたの……?」
下級生から見た自分の知らぬ過去を伝えられ、紅葉は顔が赤くなった。
「……すみません。記憶を失ってるって両親から聞いていたので」
「ううん、気にしないで。あ、そうそう私、学校から事前に教科書もらって、入院中にちょっとは勉強してたの!」
「そうでしたか……」
うなだれて、ますます可哀想な顔になるマルセルに、紅葉は慌ててフォローした。
紅葉は……自分に関する記憶はなかったけれど、教科書の内容は既にそこそこ知っていた。そのため勉強に関しては、そこまで労なく授業を受けられた。
「まあ、成績は良くなかったんだけどね、アハハ。太鼓ばっかやってたし」
「紅葉さんは今、太鼓隊なんですよね。ラタ・タッタの……凄いですよ」
中途入学で友人もできず、太鼓の練習に夢中になっていたこともあり、学校での良い思い出はあまりない。まさか、今になって学生時代の話をするとは思わなかった。
「列車事故のこと……ずっと心配してたんです。当時は話しかけられなかったけど」
「そ、そうなんだ。ありがとう…!」
話したこともなかったのに、自分を心配してくれた人がいた。町長事件の真っ最中にこんな感動と出会えるなんて。ずっと暗澹たる思いで過ごしていた紅葉の周囲が、急に光が射して明るくなった気がした。
「マルセル君これからよろしくねっ。ラタ・タッタにいつでも遊びにきてね。食事もいっぱい奢るから!」
「ハイ、ありがとうございます」
「ちょっとお! もうこの子何度か連れてってるし、アタシらってちゃんと奢ってるあよ!!」
バンバンバンと酔っぱらいが机を叩く。紹介したのは彼女本人なのに、ふたりが仲良くなればなるほど、マドカは不機嫌になっていった。
「マドカ先輩の連れてく店って、いつも『メロウムーン』じゃないですか……」
マルセルが呆れて呟いた。
──安居酒屋『メロウムーン』。
あの人の行きつけの店だ。
紅葉は火が点いたように飛び上がった。
「ねえ、新聞記者のアーサー・フェルジナンドって知ってる!? 私その人を探してるの!」
勢いよく叫んだ紅葉は、市場のテーブルをバン!と叩き、鯖缶から汁が飛び散った。
「アーサー? 知ってるわよォ〜もちろん。飲み仲間だもの」
「どこにいるか知ってる? 彼に会いたいの」
「会いたいぃ〜? やめときなさい。アイツめちゃくちゃエッチ下手なんだから」
水曜で人混みもまばらな市場内。太陽が燦々と照らされる真っ昼間でも、夜行性民族にとってはテッペン回る時間だった。
「あ〜の仕事デキます!な感じでエッチ下手って、サギよねサギ! あっサギじゃなくてキツネだったかあ〜〜ガッハッハ!!」
「…………」
「………………」
紅葉も、向かいのマルセルと同じくらいゲッソリやつれ、一気に頬がこけた気がした。
「そういう目的じゃなくて…………そう、ショーンが探してるの。アルバとして、あの人に聞きたいことがあるって」
説明も面倒だったので、ショーンに全責任をなすりつけた。
「ん〜なこと言われても居場所なんて知らないわよお、新聞社で待つしかないんじゃない? 今日中に帰ってくるかは分かんないけど〜」
「だよね……」
新聞室長の口ぶりからは、1週間急に帰って来なくなっても不思議じゃない。
「自宅は貧民街の『ジュード』ってボロアパートの203号室よ。んで、その下がカレのバアちゃんち。ま、ほとんどいないし、自宅もいつ帰ってくるかは知らないけどねぇー」
「うわ、まって、待って。メモするから!」
こっちもまさかの大収穫だ。結構な情報を得ることができた。
「アーサーさん、いつもその辺で寝てますもんね」
幸の薄そうな顔のマルセルが、コップの底のレモンの切れ端をストローでくるくる回している。
「てゆーか、ショーンなら自分で探せば良いじゃない。なんかそういうベンリな呪文とかあるんでしょお〜? 知らないけど」
「ショーンは……忙しいから」
紅葉は彼を言い訳に使ったのを誤魔化し……と同時に、何か……心に小さく、何か引っかかるものがあった。なんだろう。
「そおだそーだ、マルセルちゃん。イヌの嗅覚で探せな〜い?」
「えっ」
──嗅覚で?
「んー、やってみます」
マルセルは、事も無げに頷いた。
紅葉にとって、事件を解くための希望の光は、もしやアーサーでなくマルセルなのか?