「あの金鰐の下衆野郎は! 品位に欠ける!」
ヴィクトルがこんなに激昂している姿は、久々に見た。ショーンは吃驚して息を呑み、ユビキタスは静かに下を向いて笑ってる。
「彼に殴られた役場の人間が、毎週のようにここへやってくるんだぞ、君! 昔から、ずっとだ!」
サウザスは、ユビキタスが町長を務めていた4年の間に、深刻な経済危機に陥った。先代から破綻が見えていた状況下で、ユビキタスは懸命に改革を試みようとしていたが、解決策の見えないまま、短期的にも将来的にも、回復する見込みが全く見えないほど落ちこんだ。
「なんでアイツは警察に捕まらないんだ、何とかならないのかッ!」
ドバン! と激昂したヴィクトルが、書斎の机を両手で叩いた。
なんだかんだで、いつも息子を甘やかす父の背中を、アントンは冷や汗をかきつつ後ろで見ている。
「残念ながら……今の役場に、私の味方になってくれる人間はひとりもいないんだ。ヴィクトル」
元教師は学校に戻り、代わりに町長へ就任した元銀行役員、オーガスタス・リッチモンドによって、抜本的な建て直しがはかられた。現町長の介入によってサウザスの金融は大幅に持ち直し、今は右肩上がりに推移している。
「それに彼のおかげで、学校で毎日、お昼にサンドウィッチが出せるようになったんだ。ナッツやフルーツもおまけで付いてる。無料だぞ。東区の子たちも、毎日来てくれるようになった。こんなこと今までなかった。画期的な事なんだ」
ショーンが学校にいた頃は、弁当は、家から持参するものだった。東区の貧民街の子は、毎日持てない子も多く、分けてもらったり食べなかったり、学校へ行かずに働いている子も多かった。
「毎日100人の子供の弁当と引き換えに、毎週ひとりの大人が打撲で痣を作るか。ハッ上等だな、いいだろう!」
苦々しくヴィクトルが深く椅子に腰掛けた。幼少期は毎週のように、誰かの顔に痣を作らせてたアントンは、滝のような汗をハンケチーフで拭いていた。
「アントン、君も役場の人間だろう。大丈夫かい?」
「いえ! ボクは夜勤ですのでぇ! 町長とはあまりお会いしないのでぇっ!」
ユビキタスが心配そうに尋ねたが、アントンは直立不動でキリッと答えた。
夜行性の彼は、深夜に役場の警備をしている。ちなみに酒場ラタ・タッタの下宿人マドカも、同職に付いている。
「もういいだろう。アントンは帰りなさい。ユビキタス、治療室へ。……私は診療を始めるから、ショーンは好きに本を選びたまえ」
「は、ハイ……」
「じゃーねー、校長。父ちゃん」
「ふたりとも気をつけるんだよ」
めいめいに出て行き、ショーンは、独りポツンと、本棚の前に取り残された。大量の医学書の背表紙を前に、深い深いため息をついた。
病院を出ると、空が真っ赤になっていた。
本屋に注文書を届け、ラタ・タッタへいよいよ帰る。
「あー、疲れたー……」
酒場の営業はすでに始まっていた。昼間、郵便局へ向かう道はあれだけ遠かったのに、病院からの帰り道は、たった8分で着いてしまった。今日はいかに遠距離を歩いたか実感しつつ、酒場のドアを開けた。
「……マスター! ファンロンの……あれ?」
「ショーン、おかえりー!」
お茶と夕食を注文しようと、バーカウンターに歩いていくと、そこには珍しく紅葉が座っており、ショーンの方を向いて笑った……その傍には、
「ああ、ショーン君か、大きくなったなあ」
紅葉の隣に座る、駅帽を被った老人が、ゆっくりと振り向いた。
牧草色の古びた制服に、栗色のキュートなリスの尻尾。ドワーフのように小柄な体で、顔には立派な茶色の口ひげを蓄えている。
元ラヴァ州鉄道の運転手であり、今のサウザス駅長──
コリン・ウォーターハウスが座っていた。
「コリン駅長! どうしたんですか珍しい。ここへは何年ぶりですか?」
「いや、半年ぶりかねえ。すまないね、お酒が飲めたらもっと頻繁に来れるんだが……」
確か、コリン駅長は酒は匂いすら苦手だと聞いている。昔、鉄道運転手だった頃は、わざわざ営業時間外の昼間に、酒場を訪ねてきていた。
「あはは気にしなくていいのに、ショーンなんて毎日ここでお茶飲んでるよ!」
「……余計なこと言うなっ」
ショーンは、荷物軽減呪文が切れた重いズタ袋を引きずりながら、コリンと紅葉が座るカウンターの奥に、よっこらせと座った。
「いや、実はね。あと半月で定年退職なんだよ。その前に君たちに会っておこうと思ってね」
「えっ、そうなんですか。僕ら今日、サウザス駅の近くにいたんですよ」
「そうそう。言ってくれたら、ふたりで挨拶できたのにね」
紅葉の第2の父親といってもいいコリンには、ショーンも昔ずいぶん世話になった。最近はあまり顔を合わせてなかったが、駅に用事があるときは、毎回コリンのいる駅長室へ、挨拶しに行っていた。
「じつは、定年を迎えたら、クレイト市に夫婦で移るんだ」
「えぇっ、そうなの!?」
「私たち夫婦はもともとクレイト出身でね、故郷に戻ろうという事になった」
ラヴァ州鉄道の駅員は、よその出身者が従事していることも多い。コリンも以前はクレイト市に家を持っていたが、とある事件をきっかけに、サウザスに縁ができて引っ越してきた。
「あんな立派な庭があるのにもったいない……」
ガーデニングが趣味のコリンは、西区の屋敷の中でも、見事な花庭園を造りあげていた。
「ハハ、もうこの歳になると土いじりもキツくてね、今の家は次の駅長へ譲るとするよ」
「……そうですか」
ショーンは、もの寂しげな顔を浮かべ、マスターに杏桃茶を一杯頼んだ。コリン駅長はナッツをつまみに、ジョッキでオレンジジュースを飲んでいる。
「これから会えなくなってしまうけど、最後に、君の太鼓の演奏を見ておきたくてね」
「そんなことないよ。私クレイトまで会いに行くよ! 太鼓も持ってく!」
コリン運転手は、事件以降もたびたび紅葉のところへ通い、7年前に駅長へ昇進が叶った時も、ぜひこのサウザスに、と転勤を願い出てくれた。
ショーンは、コリンの肩にすがる紅葉に、少々疎外感を抱きつつ、甘く熱い杏桃茶を舌の奥にグイッと流した。
「じゃあ、これから太鼓隊だから、見て行ってね!」
紅葉は笑顔で、演奏しに、広間の舞台へと駆けていった。
元気に振り回す右腕からは、事件の面影は感じ取れない。
彼女は、10年前、サウザス駅で、吊るされて発見された。
彼女は、10年前、サウザス駅で、
線路上の梁に、吊るされた状態で列車に轢かれた。
その時の列車の運転手が、コリン・ウォーターハウスである。
列車に轢かれ、四肢が割かれ、内臓が潰れ、
かろうじて皮膚が繋がった状態の彼女を、
ショーンの両親が、1年近くかけ、
アルバの力で、元に戻した。
彼女が、どこから来たのか、
どうして吊るされていたのか、
誰が吊るしたのか、誰も知らない。
コリンが助けた際、わずかに意識があった彼女は、
自分の名前 「紅葉」 だけを告げて、気を失った。
それ以外の苗字も、年齢も、出身も、両親も、民族も、
何ひとつ不明なまま、
再び目覚めた時、すべての記憶を失っていた。
──とっとッとっと。
白い柔らかな皮の靴を打ち鳴らし、ショーンは、サウザス病院の廊下で、集中治療室に籠る両親を待っていた。
病院の黒い廊下は不気味だったが、誕生日に買ってもらった【星の魔術大綱】が傍にあるから怖くはない。本を膝に乗せ、廊下のベンチに座り、脚をふらふらさせていた。
あの子が駅で見つかってから、一週間が経とうとしている。
「学校は終わったのかね、ショーン」
出勤してきた院長のヴィクトルが、廊下にいるショーンに話しかけてきた。
「うん、宿題もさっき終わったよ」
「毎日ここに居なくても大丈夫だ。治療が終わったら連絡する」
「治療って、いつ終わるのさ」
「分からない。ご両親と患者次第だ」
ショーンは、事件が起きてから毎日、ここで親の帰りを待っていた。両親はほとんど眠らず、立ち尽くしで治療を続けているらしい。
「こっちに来なさい」
それを知ったヴィクトルは、自分が出勤したら、彼を書斎で待つようにさせていた。お茶を毎日、銘柄を変えて出してくれる。今日はファンロンの緑山茶だ。
「父さんと母さん、ずっと寝てないって。寝なくて大丈夫なの?」
「ここを見なさい」
ヴィクトルは、ショーンの【星の魔術大綱】のページをめくって《急速回復呪文》の項目を指差した。
「ご両親は、これらの魔法を使っているはずだ」
指し示したページには、《一分で1時間分の睡眠を取る呪文》《眠る代わりに体力を回復する呪文》などが書かれている。どれも、それなりにマナを消費する。
「あの子の治療ですごいマナを使ってるはずなのに、これもだいぶマナを使うね」
「アルバのマナは莫大だと聞く……だが、ご両親のマナは、その上のスーアルバに匹敵する量かもしれない」
「……スーアルバ……?」
ショーンは、アルバでないはずのヴィクトルが、妙にアルバの事情に詳しい事に、ここ数日の間に気づいていた。一昨日、この書斎の本棚に、これと同じ本があるのを見つけたのだ。
「ヴィクトル先生も、アルバを目指していたの?」
「…………さてね」
では、診療を始めよう。
と、院長はツイードのジャケットを脱いで白衣を着込んだ。君はその辺の本でも読んでいたまえと言い残し、診療室に入ってしまった。
ショーンは緑山茶を飲みつつ、自分の【星の魔術大綱】に目を落として、また脚をふらふらさせた。
──ダン、タン、タッタタン!
紅葉が楽しそうに太鼓を叩いている。
ショーンは、当時の情景を思い出しながら、バーカウンターでコリンの隣に座り、太鼓を叩く紅葉を一緒に見ていた。紅葉はリズミカルにバチを動かし、見事なセッションを披露している。
今日は火曜日。客もまばらな酒場の中で、甘酸っぱい杏桃茶の香りが、彼らの周りを取り巻いていた。
コリン駅長は、数曲聴いて、満足した様子で帰っていった。ショーンも早めに部屋へ戻り、爽やかな疲労のまま暖かいベッドへ潜りこんだ。遠くで太鼓の音を聞きながら、眠りに落ちる瞬間は至高の幸福だった。
翌日、
サウザス現町長、オーガスタス・リッチモンドが姿を消し、
彼の立派な金の尻尾が、サウザス駅の梁に、
吊り下がっていたと、報せが入った。