第6章【Momiji】紅葉3

 何度も、色の洪水が襲ってきた。
 丸い色の塊が、ふわふわと網膜の裏を流れ、
 チカチカと光が点滅し、水がゴウゴウと流れる音がした。
 うっすらと「本物の」光が頰に当たる。
 本物の光は、熱量がある。
 当たると、ちゃんと痛みを感じる。
 目を開けると、見慣れた黒い樫の木の天井だ。
 木目の数まで覚えてしまった。


 奥で、コツコツと誰かが叩く音がした。
「もみじ、起きてるか?」
「…………ぉ」
「しょーん、覚えた? ショーン」
「…ん……」

 彼の名前はショーンくん。
 たぶん自分と同じくらいの歳だって。
 小さな、白い、羊のツノがかわいい。
 私が声を出せるようになったら、もっと仲良くしてくれるかな。

 

 ショーンくんは、大きな魔法の本をそばに置いた。
 彼はここへ来ると、わたしの手に魔法をかけてくれる。
 爪をなおすんだって。
 わたしの爪は全部黒ずんでしまったから、新しく爪を生やす呪文をかけてくれている。

 魔法つかいになりたいから、子どものうちにたくさん練習するんだって。
 いつも頰がまっかになるまで、呪文をかけようとしてくれる。
 じっと集中して、かっこよく言葉を叫ぶけど、だいたい失敗してしまう。
 失敗しても何も起きないけど、成功するとくすぐったくなる。

 今日は、右手のくすり指だ。
 これで4本目。
 指はあと16本ある。
 うまくいかないときは、あきらめて、学校のことを聞かせてくれる。

 

「今日、計算のテストがあってさあ、」
 学校って何となく知ってるけど、じぶんが行ってたか覚えていない。
「それで、リュカが言ってたんだけどな」
 ベッドに肘をついて、楽しそうに、わたしの近くでしゃべってくれる。

 ショーンくんの、茶色くてながい尻尾が、笑うたびにゆらゆら揺れる。
「ユビキタス先生が教えてくれて──」
 尻尾もかわいい。
 いいな、あんなに長いしっぽがあって。
「──あぁっ、まずい、しゃべりすぎた! ちゃんとやんなきゃ」

 呪文が成功するのは嬉しいけど、
 うまくいかないで欲しいなって、いつも思ってしまう。
 終わらないで、また、ここに来て欲しい。
 ぜんぶうまくいってしまったら、いったいどうなるんだろう。

 

 ぜんぶのゆびが治っても、一緒に遊んでくれるかな。

 

 

「……どういうことなの?」

 モイラは、引きちぎられた洗面台を見て、呆然としていた。
 排水溝のパイプがひしゃげ、水がぽたぽた垂れていた。台を支える立派なボルトは、4箇所とも無残に引きちぎられて歪んでいる。
「すみません、弁償します」
 紅葉は、洗面台の残骸を右腕でブラブラ下げて、豪雨で家が流されたドブネズミのような貌をしていた。

「まぁまぁ……従兄弟のロビンのとこに行ってくるよ。夜にやってるんだ、すぐに対応してくれる」
 ジョゼフが逃げるように、工具店へ行ってしまった。
 アーサーは顎を抑えて、探るように紅葉を見つめている。

「すみません、私、もう帰ります……」
「待ってくれ」
「アーサー、もう遅いんだから帰らせたら」
 モイラ・ロングコートは静かに怒っている。

「……いや、フーム」
「明日、またご協力します……」
 時刻は夜の10時半。太鼓隊の最後の演奏が終わる時刻と一緒だ。普段はあっという間に楽しい時間が過ぎてゆくのに、重い時間というのは、ものすごくユックリ経過する気がする。

「そうした方がいいわ」
 アーサーは聴きたいことたくさんあるようだったけれども、新聞室長の一声で、紅葉は帰宅することになった。(壊れた洗面台はその場へ置いてきた)

 

《トン……タ、タ、タンタン…………》

 深夜のサウザス地区。
 遠くの太鼓の音もそろそろ鳴り止み、ほのかな静けさに包まれている。市場では昼の喧騒が撤退し、夜行性の人々が静かにオレンジを売っていた。 

 紅葉は酒場にまっすぐ帰ろうとしたものの、なんとなく踵を返し、役場の様子を見に行ってみた。

 建物の明かりは最低限に落とされている。関係者らしき人たちが、何カ所かまとまりヒソヒソ話をしていた。記者っぽい人物や野次馬もいる。物売りが食べ物を売りつけにやってきては、シッシッと警官に追い払われていた。

 知り合いがいないかどうか……見回ってみたけれど、いないようだ。役場の前の掲示板には、町長事件について、情報提供の募集張り紙がベタベタ貼ってある。乏しい灯りの下で、何か新情報がないかボンヤリ読んでいると、役場の玄関口がガチャリと開き、ガヤガヤと何人か出てきた。

 白いヴェールのような、たっぷりとした布が夜の街に翻る。翻る布の間から、長くて細い猿の尻尾がちょろりと見えた。

「…………紅葉?」

 サウザス地区で唯一のアルバ、羊猿族のショーン・ターナーが、きょとんとした顔で紅葉を見つめていた。

 

 長い月日を経て再会したような気がした。

 朝、一緒に役場へ連れて来られたときから、まだ1日も経ってないのに。

「ここに用事か? 夕方帰ったって聞いたけど、警察に伝えることでもあるのか」
「えっ、ううん! 大丈夫……」
「大丈夫そうな顔してないぞ」
「や、だ、だって………ほら非常事態だし」
「まぁ、そうか」

 玄関で待ち構えていた新聞記者が、ショーンの方へ向かって来たが、話を聞く前に州警官らにホールドされて、どこか遠くへ連れて行かれてしまった。
 何となくふたりとも俯き、その場に佇んでいた。優しい風が頬に当たる。しばらくして南から馬車がポクポクとやってきて、静かに夜の役場の前で止まった。

「警察が用意してくれたんだ。紅葉も乗ってく?」
「うん……馬車なんて何年ぶりだろう、凄いね」
 ショーンらを馬車に乗せた警官たちは、軽く会釈し、役場へと帰っていった。

「お客さん、どこへ?」
「酒場ラタ・タッタ。北大通りの西端のとこ」
「あいよ」
 席の後ろに立つ御者へ道を告げ、馬車は滑るように出発した。

 

 軽量馬車キャブリオレ。
 屋根がなく、幌も畳まれた座席からは、市街地の様子がよく見える。そのぶん夜風が強く当たり、歩くよりも肌寒い。だが、タカタカと道を走る蹄の足音は温かく、馬の鼓動が聞こえるようだ。

「ギャリバーよりずっと高いね、いい眺め……」
 紅葉がうっとりしていると、隣の席のショーンが急にもぞもぞと動きだし、自分のターバンを外しはじめた。

「ど、どうしたの?」
「今日、髪飾り忘れてたろ」
 ショーンは自分の取り外したターバンを、両手でグルグル巻きにして、紅葉の頭に軽く乗せた。羊角用の大きなターバンは、紅葉の角までスッポリ包んで覆い隠す。

「わ、いいよ、いいよ。すぐ着くし……」
「いいんだよ。馬車だとタダでさえ目立つんだから」
「……ん、んん……っ」

 困惑した紅葉は、慣れないターバンに手を掛けた。布の重みと熱を頭に感じる。急な出来事に恥ずかしくて眉を寄せてると、それを不満と受け取ったのか、ショーンがプンスカ怒りはじめた。

「何だよ! 乗せるだけでいいだろ。隠すだけなんだから」
「え……ええっ?」
「それともちゃんと巻こうか?」
 違う、そうじゃない。紅葉はブンブンと顔を横に振り、今度はターバンを両手でギュッと、自分の頭に押し付けた。

「ああっ、そんな押し付けて破るなよっ」
「これくらいじゃ破れないよ!」
「一番良いやつだからな、それ! 汚すなよ!」
 せっかく良い馬車だったのに、ギャアギャア喧嘩しながら帰宅した。

 

 

 時刻は深夜11時ちょっと過ぎ。

 酒場はまだ開いていたが、2人は裏手にある下宿の玄関へまっすぐ帰った。下宿ラタ・タッタのキッチンは、いつもよりシンとした空気が漂っている。

「はぁ〜っ、僕は明日もまたきっと役場だ」
「えっ、まだ行くの?」
「州警が協力してくれってさ」
 ショーンがダルそうに右肩を揉んだ。肩掛け鞄のサッチェルがいつもより重そうだった。

 彼は早々と着替えを用意し、シャワー室へ飛びこんだ。その間、紅葉はヤカンを沸かしてお茶を淹れることにした。疲れの取れる白胡麻茶だ。
 シュンシュンとお湯が沸くまでボーッと座っていると、どうしても新聞社での会話が思い起こされる。

『アルバの力を見るために、事件が起こされたと思ってる。』

 ゾクッと背中にまた悪寒が走った。アーサーの言うのが本当なら、ショーンの身の安全はどうなるんだろう。傍にいた方がいいんだろうか。砂時計のシールに書かれた「start!」の字が、あまりにも爽やかで不吉だった。

 

 紅葉は次のシャワーを頑として断り、部屋に帰ろうとするショーンを、無理やりキッチンに留まらせて話を聞いた。

「ねえ、町長の尻尾ってどうなった?」
「どうなったって、警察署にあるよ」
「……呪文を使って何かした?」
「いいや、立ち会っただけ」
「治せるの?」
「なおすっても本人がいないんじゃなあ……ファああぁ」

 眠たそうに目を閉じて白胡麻茶を啜るショーンを、紅葉はむりやり起こし、今日は何があったのか矢継ぎ早に質問した。
 紅葉は、ユビキタスが拘束されたと知ると、胸を押さえて叫び、町長室の窓に呪文が使われたと知ると、脇を抱えて考え込んだ。途中で酒場から帰宅したオッズとロータスが、順にシャワーを浴び自室へと去っていっても、2人の話はまだ続いた。
 新聞記者アーサーの推理のくだりで、ショーンの眠たげな目が丸々と開き、くだんの推察を伝えたところ、面倒臭そうに深く唸った。

「アルバの力を見るため? なんだそりゃ……」
「……心当たりは」
「ない、ないよ!!」

 ついに限界の訪れたショーンはキッチンテーブルに突っ伏した。
「わけの分からないことが多すぎる……」
「……うん。」
 疲れ切ったショーンは『明日になったらまた考える』と言い残し、トボトボと2階へ上がっていった。

 

 紅葉も湯呑みを片付け、着替えを持ってシャワー室に入った。洗面台の鏡を見て、ショーンのターバンをずっと乗せたままだったのを今さら気づいた。彼女はゆっくりとそれを外し……彼の一番お気に入りのターバンを、シャワー室でギュッと握って座りこんだ。

『オレは事件の解決を目指してる!』

 新聞記者アーサーが、揺るぎない意志でそう言った。
 紅葉は、ターナー夫妻も、ショーン・ターナーも、大事な大切な存在だ。
 もし、一連の事件が、彼らと関係しているというのなら……

「私が、事件を解決しなきゃならない……!」

 紅葉が意識を覚まして10年目。
 彼女がこれほど強い意志を持ったのは初めてだった。