比較的滑らかに進んでいた道のりが、徐々にタイヤの振動が目立つようになってきた。土の質感が変わっている。グラニテ最大のオリーブ園を抜け、空白の土肌が目立つようになっていた。
「ショーンさん、ここから少し丘を登るっす。グラニテの一番東の」
「わ!……そうか、グラニテ……ジーンマイセか!」
白い丘が——白い岩石が地面を覆う丘が、眼前に広がっている。古代よりグラニテ地区の東にひっそり佇む、なだらかな丘陵地帯。
それが《ジーンマイセの丘》だ。
「はー、そうか……こんな感じか」
ショーンは瞳をキラキラさせながら身を乗り出し、地面スレスレから一面に広がる乳白色の岩脈を眺めた。
「お、ショーンさん、ここ初めてっすか?」
「鉄道の窓から風景だけは……近くで見るとほんとう白いな」
「ええ。ラヴァ州の中でも、とりわけ美しいトコっすよ」
今までフルスロットルで飛ばしていた黒い軍蜂のごとき護送集団は、神聖な丘に入り、こわばった手足をわずかに緩め、車速を落とした。
小ぶりの平石で気持ち程度に舗装された車道を、曲がりくねり進んでいく。けして優しい道のりではない。瀟洒な色合いとは裏腹に、岩肌はザラザラと棘状なのだ。思わぬ縦揺れや横揺れが起きるたび、ショーンは、ウップと息を飲んだ。
そんな丘陵地帯から少し南へ行ったところに、《ジーンマイセの丘》の頂上とされる地点がある。途中で車道から降り(ちゃんと駐車場もある)、白い中礫が敷かれた肩幅ほどの細い歩道を、てくてく歩んでいくと……5分で丘の頂上につく。大きなオリーブの樹が1本植えられたその場所は、グラニテでもっとも神聖な聖域であり、傍には勇敢なる女性・ジーンの墓と霊廟が建てられている。
「ジーンの逸話はご存知っすか?」
「ああ……」
約800年前、まだサウザスの町も存在せず、グラニテ一帯が不毛で、皆貧しかった時のこと。
当時、グラニテを掌握していた一族の館から、とある貴石が盗まれた。捜索したが見つからず、犯人の足取りも掴めなかった。館主は激怒し、館に出入りしていた30の民が拘束され、処刑台に立たされ、生きたまま晒しあげられた。
館の召使いだったジーンは、貴石が盗まれた当日、ちょうどコンベイへ使いに出ており、処刑を免れた。しかし、心優しい彼女は悲しみのあまり《マイセの丘》へ裸足で登り、頂上で深く膝をつき、仲間たちの無実を祈った。
そのまま、飲まず食わず一睡もせず、処刑と祈りは9日9晩続いた。
そして10日目の朝、どこからか1羽の黒カラスが丘の頂上へやってきて、ジーンの膝元へ、艶々と緑に輝く、石のようなものをポトリと落とした。驚いたジーンは急いで丘を降り、『奇跡が起きた』と、緑の石を館主へ手渡した。それは館から盗まれた貴石——ではなく、ただの瑞々しいオリーブの実だった。
ただのオリーブを受け取った館主は呆れた様子で彼女を見たが、9日9晩、丘で祈り、美しい肌は汚れ、服はすっかり襤褸になり、仲間の無事を願うジーンの姿を見て、心打たれその身を恥じた。処刑はその場で取りやめ、仲間たちは解放された。
そして、ジーンが持ってきたオリーブの種は、大切に、館の庭へと植えられた。
種は芽吹き、すくすくと大きく育ち、そこから採れたたくさんの実は、グラニテの地へ広く撒かれた。ジーンがもたらしたひとつの実が、ラヴァ州最大のオリーブ園となるまで成長し、多くの富をもたらした。グラニテの民は、彼女の奇跡と勇気を讃え、ジーンの死後、丘に彼女の墓と霊廟を建て、丘の名前も《ジーンマイセの丘》と改められた。
彼女の逸話は、今でもラヴァ州の多くの場所で、語り継がれている。
「小さい頃、学校の朝礼で何度か聞いた。…………ユビキタス先生から」
「……そうすか」
ペーターはちょいんとウサ耳を傾け、目線を前に戻した。ショーンは頬を顎に当て、ゆっくりと考え始める。
瞼を閉じると思い出す。教室の木の壁、黒板とチョークの匂い、ユビキタスの穏やかな声。
校長の口から優しく紡がれる講話は、同じ話を幾度聞いても、何度でも感動を味わえた。
……いったい何でこんなことになったんだろう。厳重に鎖を巻かれたユビキタスが囚人護送車に収監され、隣を走っているなんて信じられない。
彼のことを知るためにも、何があったのか、誰が敵なのか、ちゃんと知る必要がある。
「ペーター、事件について何か——そうだ、失踪した警護官について知ってるか?」
ショーンは闇雲に呪文書を読むのをやめ、敵の正体を正面から探ることにした。
要人専門の警護官、通称【Wall lock】ウォール・ロック。
それなりに地位も高く、警察の中でも優秀な人物しか配属されない要職だ。もしスパイが紛れ込んでいるとしたら、警察組織の根幹を揺るがす事態となる。
警護官らは当初、町長事件との関わりは薄いとみられていたが、アーサーが正体を突き止めた矢先に逃げられてしまった。現状、ユビキタスに一番近しい人物だと思われるのに、ショーンは彼らについて全く知らない。
「警護官すか……残念っす。昨晩はレストランの調査で手薄で……ジブンが上司に伝えなければ」
ペーターはギリっと奥歯をかんだ。
「彼らはどうやって逃げ出したんだ? 州警察は前から怪しいと睨んでたのか?」
経歴を誤魔化し、ウォール・ロックに成りすますほどの力量と胆力、精神力。それを可能にした訓練を、彼らはどこかで受けている。
「……何度か取り調べました。ジブンも立ち会いましたが、どちらも実直で、責任感が強そうで……怪しいとは感じず…………でも、ブーリン警部は警戒を解かなかったっす」
ペーターの話によると、事件以降、2人はまとめて役場の一室(ショーンが閉じ込められた部屋と同じく、トイレ・洗面台付きだ)に拘束され、外は見張りの刑事が巡回していた。しかし、昨晩はレストラン『ボッティチェリ』『デル・コッサ』の捜査で大勢出払っており、見張りが手薄になっていた。ユビキタスが容疑者として捕まり、気の緩みもあったかもしれない。時刻は日付が変わった午前1時過ぎ、ドアを蹴破られて突破された。
「それは足で蹴っただけか? 呪文じゃなくて」
「ええ。たぶんフツーに蹴ったっす。そんなに分厚くない扉っすから」
警護官らは、廊下で出くわした役場職員を人質にし、裏玄関から突破した。玄関付近にいたサウザス警察は、人質を見て手が出せず、2人は近くの路上に停まっていた、商人のクルマを奪い逃げ去った。ラヴァ州警察が事態を把握したときは、すでにサウザス地区から逃げおおせていた。
「人質を途中で降ろしてくれたのが救いっす。窓から突き落としたそうですが」
「そうか……」
「車は、そのまま東のトレモロ方面へ向かったそうっす」
「トレモロに?」
「ええ。ラヴァ州から逃げ切る気かと。検問は張ったそうですが、この時間で見つかってないとなると、正直もうお手上げです」
サウザスの隣、ラヴァ州極東の地・トレモロ。州で一番小さい地区で、隣はすぐ別州だ。
「——聞いたところ、普通に足で逃げたっぽいけど、何か呪文を使った様子はないかな」
「え、呪文っすか? いえ、一瞬の出来事だったそうで、使ってないと思われます。……すみません、ジブンも又聞きなんで、分かってないことが多いっす。サウザスに残った仲間が調査してるはずなんで、違う発見があるかもっす」
「うーん、そっか。そうだな」
警護官の逃走が発覚してから、州警察もすぐにバタバタと護送準備を始めた。ペーターが把握しきれてないのも無理はない。
「というかあの警護官、呪文が使えるっすか?」
「それはまだわからない。ただユビキタスの仲間なのは濃厚だ」
「ショーンさん、何かご存知で言ってるんですか?」
「新聞社の調査によると、あの警護官の任命に、クレイト市の元警察高官が噛んでるらしい」
「——マジっすか!?」
あ、マズい。言わない方が良かったかも。ペーターのくりくりしたファニーフェイスが、一気に夜叉の形相に変化した。
「だとしたら非常にマズイことっす!」
「い、や、正確なことは判らないんだ……そもそも、うさんくさいブンヤの情報だし……」
「そのクレイト警察の高官が、ユビキタスの仲間って事っすもんね!」
「いや、待ってくれ。ソイツは何年も前に辞めてるそうで……」
ショーンは周囲に護送隊に聞かれてないか、ヒヤヒヤとあたりを見回した。それなりに距離を取って走行し、エンジン音も煩いせいか、幸い誰もこちらを見ていない。
「まさか……ということは、ブーリン警部はそれを知って……あ、あの件は……そういう……?」
ペーターが険しい顔でブツブツ呟いている。
(まずい。言っちゃいけないことを滑らせたかも……)
ショーンは冷や汗が止まらない。、これ以上余計なことを言わないように、サッチェル鞄から水筒を取りだし、レモン水でぶくぶく口の中を泡で満たした。