第3章【Thor】トール3

「あの金鰐の下衆野郎は! 品位に欠ける!」

 ヴィクトルがこんなに激昂している姿は、久々に見た。ショーンは吃驚して息を呑み、ユビキタスは静かに下を向いて笑ってる。

「彼に殴られた役場の人間が、毎週のようにここへやってくるんだぞ、君! 昔から、ずっとだ!」

 サウザスは、ユビキタスが町長を務めていた4年の間に、深刻な経済危機に陥った。先代から破綻が見えていた状況下で、ユビキタスは懸命に改革を試みようとしていたが、解決策の見えないまま、短期的にも将来的にも、回復する見込みが全く見えないほど落ちこんだ。

「なんでアイツは警察に捕まらないんだ、何とかならないのかッ!

 ドバン! と激昂したヴィクトルが、書斎の机を両手で叩いた。
 なんだかんだで、いつも息子を甘やかす父の背中を、アントンは冷や汗をかきつつ後ろで見ている。

 

「残念ながら……今の役場に、私の味方になってくれる人間はひとりもいないんだ。ヴィクトル」

 元教師は学校に戻り、代わりに町長へ就任した元銀行役員、オーガスタス・リッチモンドによって、抜本的な建て直しがはかられた。現町長の介入によってサウザスの金融は大幅に持ち直し、今は右肩上がりに推移している。

「それに彼のおかげで、学校で毎日、お昼にサンドウィッチが出せるようになったんだ。ナッツやフルーツもおまけで付いてる。無料だぞ。東区の子たちも、毎日来てくれるようになった。こんなこと今までなかった。画期的な事なんだ」

 ショーンが学校にいた頃は、弁当は、家から持参するものだった。東区の貧民街の子は、毎日持てない子も多く、分けてもらったり食べなかったり、学校へ行かずに働いている子も多かった。

「毎日100人の子供の弁当と引き換えに、毎週ひとりの大人が打撲で痣を作るか。ハッ上等だな、いいだろう!

 苦々しくヴィクトルが深く椅子に腰掛けた。幼少期は毎週のように、誰かの顔に痣を作らせてたアントンは、滝のような汗をハンケチーフで拭いていた。

「アントン、君も役場の人間だろう。大丈夫かい?」
「いえ! ボクは夜勤ですのでぇ! 町長とはあまりお会いしないのでぇっ!」

 ユビキタスが心配そうに尋ねたが、アントンは直立不動でキリッと答えた。
 夜行性の彼は、深夜に役場の警備をしている。ちなみに酒場ラタ・タッタの下宿人マドカも、同職に付いている。

「もういいだろう。アントンは帰りなさい。ユビキタス、治療室へ。……私は診療を始めるから、ショーンは好きに本を選びたまえ」
「は、ハイ……」
「じゃーねー、校長。父ちゃん」
「ふたりとも気をつけるんだよ」

 めいめいに出て行き、ショーンは、独りポツンと、本棚の前に取り残された。大量の医学書の背表紙を前に、深い深いため息をついた。

 

 病院を出ると、空が真っ赤になっていた。
 本屋に注文書を届け、ラタ・タッタへいよいよ帰る。

「あー、疲れたー……」

 酒場の営業はすでに始まっていた。昼間、郵便局へ向かう道はあれだけ遠かったのに、病院からの帰り道は、たった8分で着いてしまった。今日はいかに遠距離を歩いたか実感しつつ、酒場のドアを開けた。

「……マスター! ファンロンの……あれ?」
「ショーン、おかえりー!」

 お茶と夕食を注文しようと、バーカウンターに歩いていくと、そこには珍しく紅葉が座っており、ショーンの方を向いて笑った……その傍には、

 「ああ、ショーン君か、大きくなったなあ」

 紅葉の隣に座る、駅帽を被った老人が、ゆっくりと振り向いた。
 牧草色の古びた制服に、栗色のキュートなリスの尻尾。ドワーフのように小柄な体で、顔には立派な茶色の口ひげを蓄えている。
 元ラヴァ州鉄道の運転手であり、今のサウザス駅長──
 コリン・ウォーターハウスが座っていた。

「コリン駅長! どうしたんですか珍しい。ここへは何年ぶりですか?」
「いや、半年ぶりかねえ。すまないね、お酒が飲めたらもっと頻繁に来れるんだが……」

 確か、コリン駅長は酒は匂いすら苦手だと聞いている。昔、鉄道運転手だった頃は、わざわざ営業時間外の昼間に、酒場を訪ねてきていた。

「あはは気にしなくていいのに、ショーンなんて毎日ここでお茶飲んでるよ!」 
「……余計なこと言うなっ」

 ショーンは、荷物軽減呪文ファルマグドが切れた重いズタ袋を引きずりながら、コリンと紅葉が座るカウンターの奥に、よっこらせと座った。

 

「いや、実はね。あと半月で定年退職なんだよ。その前に君たちに会っておこうと思ってね」
「えっ、そうなんですか。僕ら今日、サウザス駅の近くにいたんですよ」
「そうそう。言ってくれたら、ふたりで挨拶できたのにね」

 紅葉の第2の父親といってもいいコリンには、ショーンも昔ずいぶん世話になった。最近はあまり顔を合わせてなかったが、駅に用事があるときは、毎回コリンのいる駅長室へ、挨拶しに行っていた。

「じつは、定年を迎えたら、クレイト市に夫婦で移るんだ」
「えぇっ、そうなの!?」
「私たち夫婦はもともとクレイト出身でね、故郷に戻ろうという事になった」

 ラヴァ州鉄道の駅員は、よその出身者が従事していることも多い。コリンも以前はクレイト市に家を持っていたが、とある事件をきっかけに、サウザスに縁ができて引っ越してきた。

「あんな立派な庭があるのにもったいない……」
 ガーデニングが趣味のコリンは、西区の屋敷の中でも、見事な花庭園を造りあげていた。

「ハハ、もうこの歳になると土いじりもキツくてね、今の家は次の駅長へ譲るとするよ」
「……そうですか」

 ショーンは、もの寂しげな顔を浮かべ、マスターに杏桃茶を一杯頼んだ。コリン駅長はナッツをつまみに、ジョッキでオレンジジュースを飲んでいる。

「これから会えなくなってしまうけど、最後に、君の太鼓の演奏を見ておきたくてね」
「そんなことないよ。私クレイトまで会いに行くよ! 太鼓も持ってく!」

 コリン運転手は、事件以降もたびたび紅葉のところへ通い、7年前に駅長へ昇進が叶った時も、ぜひこのサウザスに、と転勤を願い出てくれた。
 ショーンは、コリンの肩にすがる紅葉に、少々疎外感を抱きつつ、甘く熱い杏桃茶を舌の奥にグイッと流した。

 「じゃあ、これから太鼓隊だから、見て行ってね!」

 紅葉は笑顔で、演奏しに、広間の舞台へと駆けていった。
 元気に振り回す右腕からは、事件の面影は感じ取れない。
 彼女は、10年前、サウザス駅で、吊るされて発見された。

 

 彼女は、10年前、サウザス駅で、
 線路上の梁に、吊るされた状態で列車に轢かれた。
 その時の列車の運転手が、コリン・ウォーターハウスである。
 列車に轢かれ、四肢が割かれ、内臓が潰れ、
 かろうじて皮膚が繋がった状態の彼女を、
 ショーンの両親が、1年近くかけ、
 アルバの力で、元に戻した。
 彼女が、どこから来たのか、
 どうして吊るされていたのか、
 誰が吊るしたのか、誰も知らない。
 コリンが助けた際、わずかに意識があった彼女は、
 自分の名前 「紅葉もみじ」 だけを告げて、気を失った。
 それ以外の苗字も、年齢も、出身も、両親も、民族も、
 何ひとつ不明なまま、
 再び目覚めた時、すべての記憶を失っていた。

 

 

──とっとッとっと。

 白い柔らかな皮の靴を打ち鳴らし、ショーンは、サウザス病院の廊下で、集中治療室に籠る両親を待っていた。
 病院の黒い廊下は不気味だったが、誕生日に買ってもらった【星の魔術大綱】が傍にあるから怖くはない。本を膝に乗せ、廊下のベンチに座り、脚をふらふらさせていた。
 あの子が駅で見つかってから、一週間が経とうとしている。

「学校は終わったのかね、ショーン」
 出勤してきた院長のヴィクトルが、廊下にいるショーンに話しかけてきた。

「うん、宿題もさっき終わったよ」
「毎日ここに居なくても大丈夫だ。治療が終わったら連絡する」
「治療って、いつ終わるのさ」
「分からない。ご両親と患者次第だ」

 ショーンは、事件が起きてから毎日、ここで親の帰りを待っていた。両親はほとんど眠らず、立ち尽くしで治療を続けているらしい。

「こっちに来なさい」
 それを知ったヴィクトルは、自分が出勤したら、彼を書斎で待つようにさせていた。お茶を毎日、銘柄を変えて出してくれる。今日はファンロンの緑山茶だ。

「父さんと母さん、ずっと寝てないって。寝なくて大丈夫なの?」
「ここを見なさい」
 ヴィクトルは、ショーンの【星の魔術大綱】のページをめくって《急速回復呪文》の項目を指差した。

「ご両親は、これらの魔法を使っているはずだ」
 指し示したページには、《一分で1時間分の睡眠を取る呪文》《眠る代わりに体力を回復する呪文》などが書かれている。どれも、それなりにマナを消費する。

「あの子の治療ですごいマナを使ってるはずなのに、これもだいぶマナを使うね」
「アルバのマナは莫大だと聞く……だが、ご両親のマナは、その上のスーアルバに匹敵する量かもしれない」
「……スーアルバ……?」

 ショーンは、アルバでないはずのヴィクトルが、妙にアルバの事情に詳しい事に、ここ数日の間に気づいていた。一昨日、この書斎の本棚に、これと同じ本があるのを見つけたのだ。

「ヴィクトル先生も、アルバを目指していたの?」
「…………さてね」

 では、診療を始めよう。
 と、院長はツイードのジャケットを脱いで白衣を着込んだ。君はその辺の本でも読んでいたまえと言い残し、診療室に入ってしまった。

 ショーンは緑山茶を飲みつつ、自分の【星の魔術大綱】に目を落として、また脚をふらふらさせた。

 

──ダン、タン、タッタタン

 紅葉が楽しそうに太鼓を叩いている。

 ショーンは、当時の情景を思い出しながら、バーカウンターでコリンの隣に座り、太鼓を叩く紅葉を一緒に見ていた。紅葉はリズミカルにバチを動かし、見事なセッションを披露している。

 今日は火曜日。客もまばらな酒場の中で、甘酸っぱい杏桃茶の香りが、彼らの周りを取り巻いていた。

 コリン駅長は、数曲聴いて、満足した様子で帰っていった。ショーンも早めに部屋へ戻り、爽やかな疲労のまま暖かいベッドへ潜りこんだ。遠くで太鼓の音を聞きながら、眠りに落ちる瞬間は至高の幸福だった。

 

 翌日、
 サウザス現町長、オーガスタス・リッチモンドが姿を消し、
 彼の立派な金の尻尾が、サウザス駅の梁に、
 吊り下がっていたと、報せが入った。