第5章【Ubiquitous】ユビキタス1

[意味]
遍在する。同時にあらゆる場所に存在すること。
神があまねく場所に存在すること。

[補足]
ラテン語「ubique(遍在する)」に由来する。1989年に米ゼロックス社のマーク・ワイザー氏が『コンピュータ及びネットワークのユビキタス化』を提唱した。いつでも誰でも情報が得られて、簡単に情報交換ができるネットワーク社会の事である。2020年現代、彼が提唱したユビキタス社会は、ほぼ実現されていると言っても良い。


『私の名前はユビキタスだ、諸君。名前の意味は【偏在する】』
 先生の、穏やかで凛とした声が教室に響いた。
『綴りはこう書く』
 先生が、難しい文字を黒板に書いた。

    Ubiquitous(ユビキタス)

 生徒たちは一斉にノートへ書き始めたが、みな上手く書けず鉛筆の芯を折っている。入学して初めて受ける授業だ。ABCすら初めて書く者も多いのだから。8歳のショーンは、既に母親から文字を学んでいたが、それでも名前を最後まで書き取るのは難しかった。

『まだ君たちには難しい。書けなくても覚えなくてもいい。ただ知ってくれさえいれれば』
 ユビキタスは微笑みながら、書き取りをやめて教科書を開くよう指示した。
『諸君、知るということは何より大事だ。一度吸い込んだ知識は、君たちの脳と体と細胞のあらゆる場所に偏在し、君たちの動向を見守っている』
 先生はまた、難しいことを言い出した。
『ええ、絶対忘れちゃうよ!』と、リュカの隣に座るニコルが困った顔で声をあげた。ユビキタスは静かに微笑んでいる。

『忘れやしない……普段はひっそりと眠っているが、時が来たら思い出す…………』

 

 

「ユ、ユビキタス先生が拘束された……!」

 警備員アントンは、紺色の毛布を握りしめ、ブルブル震えて立っていた。ショーンは、落ち着くよう諭して廊下を見渡した……といっても、ここは奥まった角部屋で、人通りの乏しい場所だ。幸い、近くには誰もいないようだった。急いで会議室のドアを閉め、ふたりはヒソヒソ話をし始めた。

「どうしよショーン、ヤバイよ。ユビキタス先生が捕まっちゃった」
「落ち着けアントン。証拠はあるのか? まだ逮捕ってわけじゃないんだろ」
「証拠はないよ。でも州警のヤツら、先生のこと何も知らないんだ。町長職を奪われてオーガスタスを恨んでると思ってる」

 いつでも温和で、優しく思いやりのあるユビキタス。
 あの人がそんな事するはずないと、サウザス学校で教えを受けた町民なら、皆そう思っている。

「先生はもう老人だ……金鰐族の尻尾を切って、吊り下げるだなんて、そんな事は」
「はぁ? お前知らないのか、先生は力が強いんだぞぉ……怪力なんだ! 毎年西区の祭りで、おっきな樽をピラミッドに並べてビール割りをやるんだけど、先生は未だにヒョイヒョイ樽を担いでおられる!」
「えっ。」

 ショーンの知らない情報が出てきた。おっとりした小柄な老人なのに、さすがは星白犀族の腕力だ。ショーンは北区の住民だから、西区と東区の事情には少々疎い。

 

「それより、どうしよショーン。昨日父ちゃんがユビキタス先生に会ってる……!」
「だから何だよ、ヴィクトル院長は関係ないだろ。今日だって尻尾の検分に立ち会ってるし」
「でもでも、あんなに町長の悪口を言ってたんだぞう。バラされたら父ちゃんもアブないじゃないか!」
「……あれは、仕事上の愚痴みたいなもんだし……」

 ショーンの素人推理では、犯人は、町長の尻尾に恨みをもつ人物……骨折した第三秘書のブロークンをはじめ、町長のせいでケガした人物。そう思っていた。
(でもユビキタス先生を拘束したって事は、ひょっとして州警は違う見立てなのか……?)

「そ、それに病院には、いっぱい危険な薬品があるんだ!
 町長を睡眠薬で眠らせて、運ぶことだってできる!
 ああ、そうだ、しかも息子のボクは役場の夜勤警備だ!
 手引きするにはもってこいじゃないか!

 町長は、深夜、役場の中で失踪したああああああ!」

 アントンがこの世の終わりのような顔で、頰をこけらせて叫んでいた。
 ──探偵小説ばりの見事な推理だ。

「で、やったの?
「やってないに決まってんだろおおおお!」
 役場の壁と窓が、分厚く頑丈にできてて良かった。アントンの悲鳴は、この部屋以外に誰にも聞こえず、ショーンの鼓膜だけを直撃した。

 

 

 ここでいったん役場の様子を説明しよう。

 サウザス役場──この町で最も大きく、美しい建物である。

 場所は西区。表玄関は中央通りに面しており、左隣に銀行、右隣に警察署がある。2階建ての建物で【表棟】と【裏棟】に分かれている。上空から見ると『回』の形をして、表棟は縦に長い長方形で、裏棟は『凹』を左へ90度回転させた形をしている。

 まず【表棟】の中央にある表玄関を開けると、円型の住民ホールが広がっている。
 ここは住民の様々な手続きを行なう。結婚届や出生届、住民証や免許証など。手前の半円には待合ベンチがズラリと並び、大理石のカウンターで仕切られた奥の半円では、スタッフが慌ただしく書類を処理している。石造りのため少々寒く、冬になると灯油ストーブで芋やお茶を温めはじめ、用もないのに老人が集まり談笑している。

 ホール内には、南と北に巨大扉がある。扉を開けると長い廊下で、教室や会議室のドアが並んでいる。紅葉はこの一室で、ギャリバーの免許試験に合格した。南の廊下の突きあたりには図書館が、反対の北には裁判所がある。図書館は、町民によく利用されてるが、裁判所は、傍聴人以外は寄りつかない。(だが便利な場所にあるためか、サウザスは他の地区より傍聴人が多いようだ。)

 住民ホールの上階は、半球型の町議会場となっている。コロシアムを彷彿とさせる大会場では、日々サウザスの政治が行われている。重鎮が集まる2階は貴賓室や食堂、休憩室など、1階の施設より “ちょっぴり” 豪華だ。

 表棟の外観は、白大理石の巨大な長方形の建物に、ドーム屋根の円柱塔が3つ並んでいる。塔の中は、南から『図書館、町会議場と住民ホール、裁判所』が入ってる。壁にはぐるりと石像の彫刻装飾が施されており、草木や鳥たち、巻鹿族の女性が戯れる様子が、絵巻物のように彫られている。3塔の尖端は1本ずつデザインの違う旗が舞い、それぞれ『町民、政治、司法』を表している。

 壁には他にも、丸みを帯びた装飾柱が8本等間隔に並んでおり、本物のギリシア神殿のように荘厳な雰囲気を醸し出している。田舎町にこんな壮麗な(不相応なほどの)建物が作られたのは、ひとえにサウザス創設者らの尽力の賜物だ。

 ここまでが【表棟】の紹介だ。

 

 表棟の裏は、その名のとおり【裏棟】がある。

 ここでは多くの役場職員たちが働いている。外観はシンプルで華美な装飾は何もない。壁の色もセメントを重ねたような灰色だ。唯一屋根だけは、鉱山と火の神に敬意を表し、赤みを帯びた鮮やかなオレンジ色の瓦が敷かれてる。

 この赤橙の屋根こそ、役場の正面から見た際に、背部からぼんやり火の色が浮かび上がって、白い表棟の美しさを際立たすという寸法だ。サウザス町を支える使命を表す赤橙は、役人の制服の色でもある。

 裏棟の裏玄関は、表玄関のちょうど正反対の西にある。関係者以外は立ち入り禁止だ。職員全員が使うため表玄関と同じくらい大きい。
 中に入ると、まず町長室の立派なドアが出迎える。ドアの右には、総理事ブライアン・ハリーハウゼンの胸像、左に火の神の全身像があり、役人は毎日ここから各々の部署へ散っていく。

 広々とした作りの表棟と違い、裏棟は、資料と物資がギュウ詰めになっていて、物置や会議室が無数にある。実態は役人すら碌に把握していない。役場の窓はどこも鉄格子があり、いつでも監獄気分が味わえる。

 囚人のような職員たちの、唯一の保養は【中庭】だ。

 中庭は、表棟と裏棟に囲われた、つまり『回』の中心部に存在する。四季の花々が植えられ、庭師が丁寧に手入れを行い、職員はベンチでランチを食べている。一般町民がうろつくのは許されない。外周から容易に侵入は可能だが、警備にすぐ追い返されて表棟の窓から眺めるよう指示される。もちろん窓は鉄格子があり、見物には向いてない。

 役場の【外周】は、高さ2mの石塀でぐるりと囲われて、塀の上には矢尻型のアイアンフェンスが張り巡らされている。石塀と建物の間は、大人5人が横に並べるほどの長さだ。灰白レンガで舗装され、向かいの棟に行く職員たちが走っているのをよく見かける。

 そう、裏棟と表棟は直接通行できないのだ。

 屋根部分は繋がっているが、 2階は壁で行き止まり。1階に2mほどの渡り廊下があるが、双方の扉は常に施錠されて通行禁止となっている。不便な造りのため、災害時の逃走ハッチは各地に設置されている。ただし一度きりしか使用できず、使った後はすぐにバレる。

 

 

 現在ショーンが閉じ込められてるのは、裏棟2階にある南東の角部屋だ。
 ショーンは新聞に描かれた役場の見取り図を思いだしながら、事件についてアントンに話を聞くことにした。