第3章【Thor】トール2

 北大通りを、まっすぐトボトボ、西へ歩く。このままずっと西へ行くと、酒場ラタ・タッタに到着するが、まだ帰るわけにはいかない。

 カランカランと、鉱山夫の子供たちが、路上で車輪を転がして遊んでいる。ちょうど学校の下校時刻だ。キャッキャと笑う学生たちとすれ違う。女子学生はみな楽しげに、デッカーの新曲を口ずさんでいる。

 学生たちは、北大通りの西区側、病院と美容院の間の狭い小道からぞろぞろ出てくる。この小道の奥に学校がある。無邪気に帰宅する生徒たちの姿に懐かしさを覚えながら、ショーンは、小道の手前にある、大きな建物の外観を眺めた。

 時刻はちょうど約束の5分前。紅葉のギャリバーに乗って始まった休日の、最後に行きついた先は──サウザス病院。

 サウザスで唯一の、病院施設である。

 

 病院へ来訪する前は、誰しも、少し緊張するものだ。
 まして、こんな黒紫の煉瓦でできた、4階建ての重厚な病院であるならば。

 ショーンは一度深くため息をつき、次に力を込めて、蛇の口の形をしたドアノッカーを、ぐいっと押した。病院玄関の、紫紺に塗られたマホガニーの両面扉は、常に ”暖かく” 患者さんを出迎えている。

 ガチャーンと、破れた銅のような音を鳴らして中へ入ると、受付前の待合室に、患者が10数人、長椅子に座りじっと順番を待っていた。

「すいません。院長先生はいらっしゃいますか?」
「ショーン様。ええ、書斎でお待ちしておりますよ」

 院長の書斎は2階の奥だ。ギイギイと年季の入った階段を上り、黒い廊下を渡って奥に向かった。「Staff Only, Please.」と銅札が掲げられたドアを軽くノックし、奥にいる年老いた病院主に声をかけた。

 

「こんにちは、お久しぶりです……」
「君と相対するのは72日ぶりかね、ショーン・ターナー。入りたまえ」

 額の大きい、鼻眼鏡をかけた老紳士は、大きな書斎机の後ろに深く腰掛け、静かに訪問者を出迎えた。ツンツンと立てた白銀の髪は、黒のポマードを撫でつけており、キッチリと白衣を着こみ、黒手袋を装着し、今日の新聞を読みながら、優雅にアフタヌーンコーヒーを啜っている。

「約束した時刻の、きっかり5秒前だな。素晴らしい」
「おはようございます」
「君にとっては違うだろう。夜行性民族に気を遣わなくともよろしい」
「……はあ」

 老人は、読みかけの新聞紙をたたんでパサリと机に置き、ショーンの姿を、鼻眼鏡の奥でじっと見つめた。

 彼の書斎机の背後には、壁一面に本棚が広がっている。
 医学書、学術書、事典辞書の類が、新旧大小厚薄問わず、専門別に分類され、隙間なくビッチリ並ぶ様子は、見るものを圧倒させる。
 唯一、壁の中央の、壁紙が見える部分には、家族写真や、彫像アスクレピオスの蝋燭立て、病院長就任記念の装飾時計など、数点飾られ、天井近くには彼のご先祖、ブライアン・ハリーハウゼンの肖像画が掛けられていた。

「用事を速やかに済ませたまえ」

 彼は鼻眼鏡を手にとってハンケチーフで一拭きし、またカチッと掛け直した。

 サウザス病院の院長、ヴィクトル・ハリーハウゼン。
 洞穴熊族。夜行性。彼の診療は夜から始まる。

 

 ショーンは、慌てて【星の魔術大綱】を鞄から取りだし、最後の方にある、推薦文献が書かれたページを、バッと開いた。

「前にも忠告したとおり、本格的に治療を続けたいのなら、医学校に通うべきだ、ショーン。帝都には、アルバにふさわしい医学教師もいるだろう。書を漁るだけでは真の知識は得られないぞ」

 ショーンが本の目録を目で追い、書斎の医学書群と照らし合わせている間にも、ヴィクトルの小言は絶え間なく続いた。

「…………分かってます」
「独学なぞイバラの道だ、君、時間をムダにするだけだ。君の体内に存在する莫大な量のマナは、現在、有効活用できているとはとても言えない」
「はぁ……」
「もう今年で20歳だろう。そろそろ新しい段階に進むべきだ。君は何をしたい」
「……そうですね」

 病院の院長、ヴィクトル・ハリーハウゼンの忠告は、ショーンの身をチクチクと棘のように刺すものの、分厚いブワッとした布の壁に阻まれ落ちていく。
 この服は、ショーンの鎧だ。

 

「…………で、今日は何を調べるつもりだね」

 サウザス病院の2階からは、校舎と校庭が見えている。夕方の柔らかな光の中、生徒たちが駆けっこで遊んでいた。

「火傷の治療を」
「ふむ」
 自分の言葉が届いてないと察した院長は、仕方なく指示を切り替え、ショーンの求めに快く応じた。ザーッと椅子を滑らせ、端の本棚の一角をコツコツと杖でさし示す。

「ここにある」

 皮膚について集めたコーナーのようだ。
 火傷について書かれた数冊の本の中から、『火傷 -民族別治療法-』を取り出しページをめくった。院長は引き出しから、本の注文書を取り出し、書斎机の角に置いてくれた。

「この本、しばらくお借りしてもいいですか?」
「構わない、中身は全て私の脳に入ってる」

 ショーンは、アルバとして活動して以降、定期的にこの書斎に通い、専門書を借りている。【星の魔術大綱】には1000を超える推薦書の目録が載っているが、実際に手に取らないと分からないものも数多い。
 治療について、専門的な教育を受けていないショーンは、なるだけ実物をここで借り、読んでから、必要な本を書店に注文するようにしていた。

「あと、火傷の本ならここにもある」
 ショーンのいる本棚の位置から、また別の箇所を、杖で指した。
「分かりました」

 夕方の白い光が窓から差しこみ、ふわふわと埃が舞っているのが目に見える。デスクの上には、青インクでたくさん線が引かれた書きつけが、丁寧に整頓されて積まれていた。「もう帰ろ〜」と呼びかける子供たちの声が、遠くに聞こえる。

 世界から断絶された崖のように、穏やかな空気が流れていた。

 

「チョットおぉー! ショーンのとこ行ったら休みだって言うんだ。ヒドくない?」

 静寂を引き剥がすように、バーン! と轟音を響かせて、
 毛むくじゃらの大きな獣人間が「Staff Only」のドア扉を吹き飛ばした。

「どうしたのだ。病院では静かにしろ、アントン」
「聞いてよ父ちゃあん! ガラスで腕切っちゃってさあ!」
「…………ゲェ……」

 院長の息子、アントン・ハリーハウゼン。
 小柄なヴィクトルの2倍はありそうな巨躯の彼は、ドスドスと足を踏みならし、我がもの顔で書斎へ乱入してきた。

「ちゃっちゃと治したいから、ショーンんとこ行ったらいないんだもん──って、うっそおショーンいるじゃん、ズル休みじゃん!」

 アントンがショーンを見つけ、ワアワアと大げさに叫んだ。両腕をブンブン元気に振り回し、ケガをしたようには到底見えないが、何やら右腕に、血が染みついた包帯を巻いている。

「黙れ、病院で騒ぐな。大熊野郎」
「クマぁ? ハッ、アナグマは熊じゃなくてイタチの仲間なんだぞぉ。バッカだなぁ〜!」
「うるせぇ! それぐらい知ってるわ!

 神経質で紳士然としたヴィクトルと、粗野で喧騒としたアントン。性格も見た目も180度違うが、立派な実の親子である。院長の妻ドリー曰く、どちらも洞穴熊族らしい特徴のようだ。
 アントンはショーンの2つ歳上で、幼少期学校でいばり散らしてた彼に、ショーンはずいぶん迷惑を被った。当然、彼が治療に来ても治したくは、ない。

「僕はお前が来ても、絶対にケガなんか見ないからな!」
「あぁ? いけないんだぞお、どんなクズでも平等に見るのが医者とアルバのやることだろお!」
「自覚あるなら、ケガを治す前にクズを直せ! バーカ!」

 子供同士の醜い喧嘩が始まって、ヴィクトルは深いため息をついた。

 

 ──トットットン。
 その時、水を打ったように、静かなノック音が書斎に響いた。

「…………ずいぶんにぎやかだね、良いことだ」
 学校の校長ユビキタスが、ゆっくりと入ってきた。

「ユビキタスか、ちょっと待っててくれ、アントンが怪我をした」
「ああ、いいよ。私は少し早めに来たから」

 新しい来訪者はゆったりと静かに微笑み、スノーホワイトの長ローブの、左袖をひらりと振った。ヴィクトルは、書斎の隣にある診療室へアントンを連れて行き、書斎にはふたりだけが残った。

「先生……」
「ショーンもいるとは、今日は良い日だ」

 子供に戻ってしまったショーンは、恩師の顔を見た途端、クシャリと目尻の奥を深めた。

 

「……久しぶりだね、ショーン。元気かい」
「はい、お久しぶりです、校長先生」

 小柄で柔和な顔をした彼の名は、ユビキタス・ストゥルソン。
 灰銀の髪をきっちり撫でつけ、黒いリボンで結んでいる。教職者らしいローブを着こみ、犀の鼻角には、おしゃれな丸眼鏡をかけている。

 彼は長年、サウザス学校で教職を務め、ショーンやリュカ、ついでにアントンも彼から教えを受けていた。授業はとても丁寧で、指導は慈愛に満ちており、昼も夜も教壇に立ち、多くの生徒を導いた。
 サウザスの若者たちは、彼から教養、礼儀、人を愛することの全てを教わったといっても過言ではない。

「お体は大丈夫ですか……まさか、ご病気では?」
 ショーンは怪訝な顔で膝を曲げ、小柄なユビキタスに伺った。
「いやいや大した事じゃない。この歳になれば、皆どこかしら悪くするものだ」
 校長は、肩を軽く回して、おどけて見せた。

 

「そうなんですか……?」
「そうそう、友人に会いに来てるのと同じだよ」

 ユビキタスは、病院長ヴィクトルと同い歳で、旧来の親友だ。生徒がケガや病気で病院に連れていかれる際、彼らが学識ある "大人な会話” をしているのを、生徒たちは陰でこっそり憧れていた。

「私のことより、立派になったねショーン。活躍は聴いてるよ。たまには学校へ遊びに来てくれないか。みんなアルバ様のお話を聞きたいと思う」
「えっ、僕は……話せるような話なんか無いですよ」

 ショーンは、額に皺を寄せて首を振ったが、ユビキタスは謙遜と受けとったのか、いやいやそんな。と微笑んだ。

「アルバは誰にでもなれるものじゃない。生徒たちも喜ぶよ」
「いえ、先生こそ。町長もされてたなんて……すごいですよ」

 彼はなんと第55代町長オーガスタスの1代前に、町長を務めた人物でもある。

 

「ハッハ、とんでもない。私は所詮しがない学校教師。政務など向いてなかった」
 ユビキタスは、苦笑いをしつつ皺が刻まれた手を振った。

「でも、先生は町議も務めてらっしゃったじゃないですか」
「いやいや、今から思えば、あれはままごとの延長だった」

 彼は約20年間、学校教師を務めながら、町議会に参加していた。そして、当時の町長が高齢で引退宣言した年に、ユビキタスは教師を退く決意を固めて、町長選に名乗りを上げた。

「そんな事ないです。先生の仰っていた、町の政治や歴史のお話はとても勉強になりました。今でも為になってます」
「ハハ、それは良かった。それで終わっておけば良かったのだけどねぇ」

 町の多くの人間が、聡明で優しいユビキタスを支持し、
 彼は第54代町長に当選した。

「結局、私の描いた理念は理想郷でしかなかったんだ。現町長のような実務感覚に欠けていた」
「………そんなこと、ないです……よ」

「そうだとも! オーガスタスなんて忌々しい!」

 バン! と大きな音を立て、ヴィクトルが顔を怒りで震わせながら、治療室から飛びでてきた。