時刻は朝6時半。靄はまだ明けない。
紅葉は携帯瓶の蓋をちゅぽんと開け、唇を水で湿らせた。
リーダーが休憩ではないと命じたのに、部隊の空気が緩んでる。
命じた当人でさえ、左前方にいる警官と楽しげにお喋りしていた。
この部隊は警官が6人、アルバが2人、囚人が1人。
そして酒場の店員が1人。
誰も信用なんかしない。守るべき相手のショーンでさえ。
『ピー、ガーッ!』
胸につけたトランシーバーが鳴った。
『えーっと…アルバの、ショーン・ターナーです』
紅葉はチッと舌打ちした。電波上で本名なんか名乗っちゃダメだよ。
『ラヴァ州警がアルバへの……つまり呪文を使える人間への、対処法を知らないと訊いたので、今から伝えます』
——そんなの教えていいんだろうか。紅葉は眉を吊り上げ、遠方にいるクラウディオも同じく顔を曇らせた。
『まず第一に、呪文は、口に出して発声しないと成功しないんです。一番いいのは口を塞ぐこと。これで全ての呪文は使えなくなります』
警官たちは未知の情報に、黙って拝聴していた。
『呪文っていうのは、体の一部、もしくは複数箇所に、マナを集中させて……次に呪文を唱えることで成功します。マナを集中させると、その部位が光ります。ですから、詠唱前に光った所を攻撃したり怪我させれば、その呪文は失敗し、再度同じ呪文も打てなくなります』
警官たちの嬉しそうな表情と真逆に、クラウディオと紅葉の顔はどんどん険しくなっていく。
『複数箇所が光る場合は、どこか一部だけでも攻撃すれば大丈夫。例えば5指の先端が光っている時は、親指だけを怪我させても呪文は使用できなくなります』
同胞の顔など何も知らないショーン・ターナーの、独演会はしばらく続いた。
『ただ、呪文には色々な種類があるし、使う体の部位も様々です。回復呪文も豊富ですから、攻撃が成功したからといって油断はできません。一番確実なのは、直接呪文を止める口塞ぎです。えーっと、あとは集中力を要するので、例えば目潰しとか金的とかも……』
つらつらと弱点を語り続けたアルバ様は、最後に警官からの質問にいくつか答え『じゃあよろしく……』と最後の挨拶を告げ、ぷつりと切った。
なんだこれは。
紅葉は静かに激怒した。
(いくら【星の魔術大綱】の序章に書かれている内容とはいえ、無線に乗せてベラベラ喋るだなんて)
(どこに裏切り者がいるか分からない)
(この部隊の中に紛れてても全くおかしくない!)
(みすみす自分の弱点を晒すなんて、お人好しなのか、大バカなのか——)
めらめらと燃える炎が彼女の両肩に揺れるようだった。
一方クラウディオも深いため息をつき、ヤレヤレと首を振った。伝わってしまったものは仕方がない……そう言いたげに首をあげた。
そんな苛立つ2人の気配を背中で感じたペーターは、満足げにトランシーバーを切るショーンの横顔を優しく見つめた。
「……いいんすか、ペラペラ喋って」
「え?」
ショーンは、きょとんとした顔で振り向いた。大きな丸い猿の瞳がこちらを覗く。
「何が?」
「だって……ご自分の弱点ですよ」
「いや、警察にちゃんと伝える方が優先だろ」
サラリと、ビスコッティの差し入れでもするかのように、問いに答えた。
「特に隠すような事じゃない。この本に全部書いてあることだし、呪文の使い手ならみんな知ってる」
ショーンは真面目な顔で、パッパッと分厚い魔術書の表紙を素早く叩いた。
「ですが、誰もが知ってる事じゃないっす。呪文を勉強した人しか知らない。それならヒミツにしといた方が——」
「違う! 対処法を知ってても、対応できなきゃダメなんだ!」
ショーンが空に向かって突然吠えた。クラウディオと紅葉の耳にも届いた。
「僕は……ボクは無事に戦える自信がない。対応できるか分からない。学校じゃ戦闘訓練なんて碌になかったんだ!きちんと訓練を積んだ人間が、対処法を知っていた方がいい!!」
厚い本の背表紙を握る手が、ブルブルと震えている。長くて細い猿の尻尾が、不安げに彼の体に巻きついていた。
「ショーンさん……」
オリーブ畑に深く立ち込めていた朝靄が、いつの間にか薄くなっている。何層にも重なる雲の切れ目から、太陽の光が注ぎ始める。辺りが少しずつ、明るく透明になってきた。
『総員、出動開始!』
オールディスの声がトランシーバーから聞こえた。出立の時間だ。
「ショーンさん!」
止まっていたエンジン音が、あちこちから再び鳴り始める。ペーターはショーンの肩を掴んだ。
「ショーンさん、まず自分でジブンの舌を噛まないことが大事っす!戦いになったら歯をシッカリ噛み締めてください!そして決して目を閉じないこと。目を閉じたら、いざって時に逃げられなくなるっす!」
ペーターはそう言い聞かせながら、胸ポケットから葉っぱを1枚取りだし、ショーンに渡した。そして急いでギャリバーに跨り直し……これから運転の再開だというのに、あろうことか彼は自分のヘルメットを外した。
ブルンッと、太く、たくましい野ウサギの耳が出てくる。
「大丈夫っす……何が何でも、貴方の命を守るっすよ」
まっすぐ天に向かって立たせ、ヒクヒクと耳介を左右に動かした。
これで全方位、どんな些細な音でも拾える。
「————リュカさんとの約束っすから!」
ドゥルン!! と一際大きなエンジン音が鳴り響いた。
大地を再び駆け抜く音だった。
「切れた…………」
長く細く、菌糸のように伸ばしたマナが、 ぷつ と突如切れてしまった。
この感触は、おそらく《テルミヌス》の呪文だろうか。
せっかく真鍮眼鏡に見えない細さ──髪の毛の100分の1まで細くしたのに。
苦労が実らず、青年は深くため息をついた。
クレイト市のアルバの顔を一人ずつ思い出していく。
あの黒猫狼の仕業だろうか。
警察に知られたとしたら、こちらもすぐ動かねばならない。
「…………行かなきゃ」
もうしばらく、青くて淡いキノコの光を鑑賞していたかった。
精霊たちに感謝の礼を述べ、有角族の青年は、黒いルクウィドの森を静かに立ち去った。