「はあ……銀行なんて行くんじゃなかった」
ショーンは恐ろしい空間から解放されて、ガックリと机に突っ伏した。黄金のお宝が沈むナイルの川底に、石で縛られ沈められたかのようだった。
「そうだ、次に行く時は町議会中に行こう……それなら絶対会わなくて済む」
「ご注文は? お客さん」
カウンター奥の店主に声を掛けられた。
「えっ、そうだな……ファンロン州の緑山茶か菊水茶を……」
「あのな、ウチは『デル・コッサ』じゃないんだ。お客さん」
そんな洒落たもんあるか、と店主にどやされた。
ラタ・タッタにはあるのに……と情けなくボヤきながら、メニュー表をしっかり読んで、飲み物と食べ物をそれぞれ頼んだ。
青空床屋の裏手にある、小さな狭い喫茶店。
中央通りから店先が見えるため、ショーンも存在だけは知っていた。
店主は、黒いエプロンをつけた髭面の羆熊男で、注文の品を手早く作り、数分と待たずに運んできた。ボウルいっぱいのクレソン草とビール麦のサラダに、アップルサイダー。刃先の欠けた傷だらけのフォークで頬張りながら、ショーンは店内を見回した。
バーカウンターに椅子が4脚、窓辺のカウンターに3脚。それと小テーブルがひとつだけ。店主はマイペースに麦煙草を吹かし、コーヒーを淹れている。壁にはバンドのポスターにレコードジャケット。店主は音楽好きのようだ。
東区らしい小汚い雰囲気だが、掃除は意外といき届いている。客はハンチング帽をかぶった男がひとり、隅で新聞を読んでいた。カウンター奥のラジオからは、デッカーのヒット曲が、ギャリバーのCMと共に延々と流れている。
店内をひと通り見終わったところで食事が終わった。悪くない味だった。
今の時刻は、午後1時15分。約束の時間までには、もう少し時間がある。
「市場にでも行ってみるか……」
もしかしたら、リュカにも会えるかも。
ショーンは、4ドミーをジャラリと置いて、店を立った。
てくてくてく。
市場へ向かう人混みの中で、数人、ショーンの存在に気づいてチラチラ振りかえる者がいる。あの町長が言ったとおり、アルバがこうした市街地で過ごしているのは、極めて稀だ。
ルドモンドのアルバの多くは、皇族の膝元で才賢を伸ばすか、人里離れた奥地で隠遁している。定住を好まず、フィールドワークや冒険を求めて旅する者も中にはいるが、いずれにせよ、サウザスのような長閑な田舎町で、アルバを見かける機会は多くはない。
ショーンの両親は、長年サウザスで暮らしていたが、息子の帰郷と同時期に、入れ替わるように2人とも帝都に行ってしまった。現在、夫婦はスーアルバとして宮廷で研究に打ちこんでいる。
周囲に気づかれぬよう目線を下に落としつつ、ショーンは足早に市場へ向かった。
着いた──食と雑貨の宝庫・サウザス市場。
北大通りと中央通りの交差地点から、南東にかけてズラッと店が広がっている。東区で一番、いや、サウザスで最も活気ある場所だ。カラフルな天幕で覆った出店が4、50ほど立ち並び、棚に山盛りの食材を盛りつけ、彩り豊かに売っている。
野菜、魚、肉、麦に牧草、缶詰や香辛料など、通りに近い店は飲食物が。奥の方では、掃除用具、調理道具、家具、置物、植木鉢など、日用雑貨が売られている。
広場の中央には、たくさんテーブルとベンチが置かれ、買いこんだ物をその場で食べられる。ベンチの周りには、石窯やグリルが数機設置されており、ステーキや焼き魚、豆を煮込んだスープ、冷たい炭酸レモネードなどが売られている。
露店の多くは常設店だが、流れの商人が、期間限定で珍品を売りにくる事もある。ラヴァ州の巡回商人や、オックス州の家具職人、ファンロン州の茶商人など。夏祭りの時期になると、グレキスの商隊が大量に押しかけ、サウザス住民の大好きな太鼓を売りにやってくる。
今回はリュカの言ったように、ラヴァの州都・クレイト市から、香辛料売りが来ているらしい。壁に貼られた市場のカレンダーを見ると、香辛料売りは、ちょうど今日の夕方までいるようだ。
「あらやだ、アルバ様じゃないの!」
中腰でカレンダーを覗いていたら、青物屋のエリナ婆さんに見つかった。
「まーまーお久しぶりぃ、こないだ息子を助けてくれてありがとうね!」
「あ、お久しぶりで……」
「これ持ってって頂戴。お礼よっ」
婆さんはシワだらけの細い腕で、重い根野菜を掴んで、麻袋にボンボン入れはじめた。
「えっ、ちょ待っ、大したことしてないです。こんなに貰うわけには……!」
「良いのいいのよ。ルチアーナちゃんにもよろしくね!」
婆さんは、シュッシュッと老人にあらざる神の手つきで麻袋の紐を縛って、野菜でゴツゴツと膨らんだ袋を、一瞬でズンと押しつけてきた。
──おい嘘だろ。
突き指を治した礼には重すぎる。これがあるから、市場を気軽に歩くのは禁物なんだ。久々に姿を現したアルバ様に、店主たちは俄かに活気づき、次々と声をかけ出した。
「貴方のお母さんがね、スゥッと呪文を唱えたとたん長年抱えてた腰痛がぁ!」
「ジイちゃん、前にターナーさんに骨盤治してもらったしょ。お礼しないと!」
「御父様には婆ちゃんの最期を看取ってもらってね……グスっ」
エリナ婆さんから貰ったズタ袋は、市場ブースを歩くうちにドンドンどんどん膨れ上がった。ショーンの手柄もほんの少しあるものの、その大半は両親が昔に治したお礼の品だ。
「あああ、ア、ぁ……」
肩がちぎれそうなくらい重い贈り物を抱え、ヨタヨタ奥まで歩いて……
例の期間限定ブースに着いたものの、荷物の重みで集中できない。
「はぁー……すごい匂いだ……」
これがリュカの言っていた……珍しい香辛料売りか。
市場ブースの中で、そこだけ異次元の空間が広がっていた。
真っ黒なビロードのテントの下には、強烈な匂いのする星の形の実、焼けただれたような赤い豆、すりつぶされた緑の粉や、花びら、葉っぱ、枝を乾燥させたもの等々が、平籠に山積みになっていた。
籠の奥には、大量の瓶詰めが。黒コゲの蜥蜴の死体らしき物、親指をブヨブヨにふやかしたような物、金ピカ砂つぶ、棘々の球体など、謎の商品が並んでる。魔術学校で薬草を習ったショーンでさえ、名前も調理法も、全く知らないものだらけ。リュカならちゃんと分かるんだろうか。
テントの後方、壁代わりに吊るされた絨毯には、テントと同じ黒い布地に──これは、月夜の砂漠だろうか。
月や星が煌めく夜空の下で、一面に砂漠が広がっている。そこには緻密な金の刺繍で、駱駝隊や商人のほか、蜥蜴や鷹、竜や魚などの動物たちが、画面のあちこちに絵描かれている。
絨毯の下には、大量の素焼きの赤い壺(中身は商品の香辛料だと思われる)が並んでおり、そんな商品たちを守るように、三日月の金の矛を先端に掲げた、黒い長槍が、絨毯の左右に立てられていた。
香辛料売りのクレイト商人は、一様に黒ひげ、黒髪、金の瞳の男たちで、ラヴァ州ではあまり見ないような、黒いベールを体に纏い、ジッと黄金の天秤を見つめて佇んでいる。
(これは……とても僕の手に負えないぞ)
ショーンは肩にズッシリ食いこむ袋を引きずり、ほうほうのテイで立ち去った。
現在、午後2時30分。昼ごはんは皆食べ終わった時間帯。
夕飯の買い物客で溢れる市場も、中央広場のベンチは人がまばらだ。誰からも声をかけられる事なく、ショーンはもたもた歩いて端のベンチに座った。そして重いズタ袋の下で、ペチャンコになったサッチェルから、【星の魔術大綱】を取り出した。
「ハーッ、重い重い重い重い……」
彼はイライラしながら尻尾を振り、神経質にページをめくって呪文を探した。
「………えーっと……重さを変える呪文だと、んーと」
一刻も早く、このズタ袋を軽くしたい。
重量増減ひとつ取っても、物体の材質、密度、天候条件やシチュエーション、生命の有無で、使用呪文は大きく変わる。
今の状況にふさわしいのは、荷物軽減呪文《ファルマグド》。
ショーンがこの呪文を使用するのは、去年、下宿の隣人マドカのチェストを階段から降ろして以来だ。マナの量が何より大事で、軽くする重さや時間によって使用量が変化するため、計算表の一覧が本に詳しく載っている。
「重さを半分、いや4分の1がいいな……」
荷物を軽くしすぎても上手くいかない。羽毛ほど軽くなったマドカのチェストは、階段の最後の段で呪文が切れて悲惨なことになってしまった。
「時間はだいたい、3時間……するとマナ量が……うーん」
ショーンはブツブツ呟きながら、書きつけに必要マナ量を計算し……
「上限値は──よし、こうか!」
数十分後、ようやく下準備が終わった。
彼は麻袋の前に、両手をぐっと前へ突き出し、呪文を唱えた。
【この荷物をしばし軽やかに運ばせ賜え。 《ファルマグド》】
フワンと、両手から溢れた灰色の明るい光が、
ショーンと荷物を、一瞬のうちに包み込んだ。
「……よしっ」
無事に成功したようだ。
根菜と青物がわんさと入った麻袋が、鶏の胸肉ほどの重さになった。
一息ついたところで時間を確認すると、まだ昼の3時だった。約束の時間には微妙に早く、このままベンチで休憩しても良かったが……
(……リュカんとこに顔を出すか)
幼馴染の顔が、ふと思い浮かんだ。
子供の頃はいつも、お互いの家を行き来していた。
大人になってからは、ショーンが酒場からなかなか離れられないせいで、リュカの方から、いつも遊びに来てくれる。今日はせっかくの休みだし、市場とは目と鼻の先だ。たまには向こうにも顔を出そう。
露店で買ったレモネードを飲み干し、リュカのいる鍛冶屋へと向かった。
鍛冶屋トールは、北大通り沿いのど真ん中。市場の傍という好立地にある。
市場の北西出口からちょっと出て、北大通りを横断すれば、もうリュカの店へと着いてしまう。アイツが料理が好きで腹部がモリモリ成長したのは、市場の近くに生まれたせいだと、ショーンは個人的に睨んでる。
今日は火曜日で、火の神様の休養日。北区の店はほとんど休みだ。トールも例外ではなく、ドアには「closed.」の札が下がっていたが、店の軒下に、子供がふたり遊んでいた。
あれは──リュカの妹フレヤと、弟ボルツだ。
子供たちは、店先の路上にチョークを引いて遊んでいる。白いチョークで描いた丸の上を、ぴょんぴょんジャンプしていた弟ボルツは、ショーンの姿を目ざとく見つけた途端、ニヤッ、と悪童の顔をし、けたたましい声を上げ指さしてきた。
「うおおおショーンじゃん。めずらしー! ションベンかけてやろうか?」
「うるせえ、チビ」
「あ? やんのかこらぁ!」
「こらボルツ、失礼しないのっ!」
4歳のボルツは生意気なガキ大将真っ盛り。己のサスペンダーをカウボーイのようにふり回し、ショーンの体にバシバシぶつけてくる。暴れるボルツを何とか右脚で抑えながら、妹フレヤに声をかけた。
「リュ……痛てて、お兄さん中にいる?」
「ええ、もちろん。2階のキッチンにいるわよ。鍵を開けてあげるから、お好きにどうぞ」
7歳のフレヤは歳のわりにシッカリ者だ。水色のたっぷりしたプリーツスカートを揺らしながら、玄関の鍵をガチャリと開けてくれた。
ボルツの体を引っぺがし、澄ましたフレヤに促され、
ショーンは鍛冶屋トールの扉を開けた。