そもそもアルバとは何か。
アルバとは魔術師。
大陸ルドモンドにおける、帝国魔術師のことである。
年に一度、試験が行われ、帝国から正式に認定を受けた者だけが、その職を名乗ることができる。アルバに必要なものは、知識と慧眼、探究心、そして体内に有する魔力──《マナ》の有無が重要である。このマナの量が多くなければ、どれほどの研鑽を積んでも、アルバになることはできない。
ひとたびアルバの資格を得たものは、国中の尊敬を受けられるが、公僕として、人民に奉仕せねばならない。
奉仕内容は、州に報告する必要があり、成果や実績に応じて、恩給や予算が受けられる。内容は、学術研究、社会福祉、怪物退治など、多岐に渡るが、ショーンは今のところ、生まれ故郷のサウザスで、町民のケガを治す仕事をしている。
ケガを治す、つまり《治癒師》──
とても尊い職だ。切り傷、刺し傷、火傷、軽い風邪なら、呪術で治せる。だが重大な傷病は、ショーンには治せない。事故現場に呼ばれることも度々あったが、切断された脚を、泣きながら治療を施したものの、結局うまく繋がらなかった。
ショーンの両親は、共に非常に優秀なアルバで、今は研究のため帝都に行ってしまったものの、昔はサウザスで活躍していた。
彼らは、屋根から落ちてバラバラに砕けた老人のあばら骨を、ものの数日で組み直したり。鉄道に轢かれ四肢が裂かれ、皮だけかろうじて繋がっていた少女の躰を、再び繋ぎ合わせてみたり……ショーンが未だに、どうやったのか見当もつかない治癒呪文を、次から次へとやってのけた。
そうした超人的な偉業を身近で見続け、目が肥えてしまった町民達にとって、ショーンに対する風当たりは……とりあえず、伏せよう。
「あーもー、掃除しろ掃除しろってうるさいな!」
雑誌の山に埋もれながら、ショーンは自分のベッドに突っ伏した。
あれから、顔がスープだらけになってしまったショーンは、食事を切りあげ、下宿のシャワーへと駆けこんだ。リュカは2本目の蜂蜜酒を注文し、紅葉も2回目の舞台へと戻っていった。
ショーンの部屋は、酒場から最も遠く離れた位置にある。それでも喧騒は聞こえてくるし、太鼓の振動は、巨人の足踏みのように背中へガンガン伝わってくる。おまけに北西の角部屋だから、めちゃくちゃ寒い。国中から尊敬を集める帝国魔術師に、あるまじきこの環境も、イライラを増幅させる原因だった。
「もお、やだ!」
足を再度投げだすと、昼間、紅葉にまき散らされた封筒が、パサリと床に落ちる感触がした。宮廷魔術師の印が押してある。皇帝直属のアルバのみ許される、鮮やかなコバルトブルーの帝印章だ。
ショーンはそれを拾ってジックリと読みかえし……途中で何度も、長い猿の尻尾で枕をパタパタ叩いた……そして、ようやく意を決して立ちあがり、紙が積まれた文机の奥から、使える羽根ペンとインクを引っぱり出した。
ドアの向こうでは、本日最後の旋律が奏でられている。紅葉が瞳を閉じ、頰に汗を滲ませながら、バチを振る様子が目に浮かぶ。屈強な鉱山の男たちに向けて、力強い演奏を続ける彼女が、昔、体の四肢がすべてふっ飛んでるなんて、誰も信じやしないだろう。
町から街灯が消えて深まってゆく夜の中、星ランプの灯りを調整しながら、ショーンは懸命にペンを走らせ、誰かのために返事を綴った。
──コッカドゥルドール!
「んーん、寒っ」
早朝、元気な鶏の声が、町のあちこちから聞こえてくる。
太鼓の演奏が終わると、すぐに帰って寝てしまう紅葉は、酒場従業員でありながら驚くほど早起きだった。
井戸から水を汲み、部屋のウォッシュスタンドに注いで顔を洗った。紅葉の住む部屋は、酒場の地下室だ。ジメジメして住み心地が良いとはいえないが、洞穴みたいで気にいっている。顔を洗った残りの水をバケツに開けて、雑巾を絞って床を拭く。ショーンみたいに汚い部屋は信じられない。
「あそこ、掃除しに行った方がいいのかなぁ…」
お茶の差しいれ程度はまだしも、部屋の掃除をしてやるなんて、さすがに従業員の範囲を超えてる気もするが(ていうか、手伝ったら手伝ったで、怒られそうな気もする。)
「でも……昨日のショーンの様子はおかしかった」
どんどん部屋も性格も汚くなってるし、友人としてなんとかした方がいいのかな。そう考えながら、掃除を終えて、バケツを持ち、下宿の1階へと階段を上がった。
紅葉の昼の仕事は、下宿の共有部分を掃除することだ。
この下宿は2階に個室。1階にシャワー室やトイレ、キッチン等の共有施設と玄関がある。建物北の、横に細長いスペースで、隣にオーナーの自宅があるので、かなり手狭だ。下宿と自宅の間にはドアがなく、直接行き来はできないものの、双方のキッチン壁にある木製小窓で、たまに食べ物をやり取りしている。
下宿の階段は、地下まで続いており、地下室に住む従業員達も、下宿の共有施設を使用している。大所帯でありながら、下宿に住む面々は揃いもそろって宵っぱりなため、紅葉は朝、悠々と一人で掃除し、朝食を取ることができるのだった。
手早くシャワー室とトイレの掃除を済ませ、朝食を作りがてら、キッチンの掃除も小まめに進める。オレンジマスタードを塗ったトーストを頬ばっていると、二日酔いの顔をしたマドカが、だらしない格好で帰宅してきて、トマトジュースだけ飲んで部屋へと戻っていった。
廊下の窓から、女将さんが畑のハーブを手入れしているのが見える。この酒場の料理は、すべて女将さんの主導で作られており、採れたての自家製野菜もよく出てくる。マスターの出す美味い酒、女将さんの出す美味しい料理が、ラタ・タッタが繁盛している要因だ。
紅葉はトーストを食べ終え、皿を洗いつつシンクを拭いた。玄関の埃を竹ぼうきでザザッと掃いて、ドアノブを拭き、1階の掃除が終わった。ファンロンの菊水茶でも淹れようと湯を沸かしていると、神経質な足音が上から響くのを感じた。
──ショーンだ。
「おはよう! ショー…」
「…………ぁ」
すると、何ということだろう。
階段を降りてきたショーンは、紅葉の姿を見るなり急に踵を返してしまった。
分厚い外履き用のスリッパの音をドタドタ鳴らし、
階段を駆け上がり、姿を消し……
重い赤樫のドアとおぼしき音が、
ズン……と、暗いひとりぼっちの階下に響いた。
「えっ」
あまりのことに、紅葉は呆然と固まった。
(わ、私そんな悪いこと言った?)
(き、昨日言ったこと、ひどかった?)
いきなり顔を背けるなんて。
紅葉はダラダラ背中に冷や汗が流れて、爪先がキューっと冷たくなるのを感じた。喧嘩したことは数あれど、あんな風に避けられたのは初めてだった。
(いやいやいや嫌、嘘やだ。どうしよう)
(あ、謝りに行く?)
(拒否されたらどうしよう、嫌だ)
(ショーン、イヤ……)
彼女が愕然としながら、睫毛を固まらせていると、ショーンが、ガウンをつっかけバタバタと戻ってきた。
「ほら、これ!」
彼はバシッ! とキッチンテーブルに、何か小さい物を叩きつけた。
それは2枚の小さなシール。
親指の爪ぐらい大きさの、昔おもちゃのオマケで付いてたような、色褪せて汚れた白いシールだ。
「お前の顔見て思い出したよ、砂時計に貼っとけ!」
紅葉は呆然と、黒い瞳で、シールを眺めた。
「あーもう、本棚の奥まで探しちゃったじゃないかっ、埃だらけだ!」
ショーンは怒りの尻尾をフリフリ振りまわし、ガウンの埃を払ってる。
「はぁ? ちょっと何笑ってるんだよっ、何がおかしい!」
小さなシールを爪で摘んで、肩を震わせケタケタ笑う紅葉に対し、ショーンは不審げに顔を引きつらせた。唇を尖らせながらキッチンを見回し、「ほら、ヤカンも沸いてるじゃないか」と小言をいいながら火を止めた。
ようやく笑い終えた紅葉は、軽やかな手つきで、戸棚から菊水茶の缶を手に取り、ティーポッドに大さじ2粒の茶花を入れた。
「シール忘れるなよ、シール、シール」
「ハイハイ。」
彼女は砂時計の上下にシールを貼り、それぞれ上から「start!」「fin.」とペンで綴った。ショーンは冷蔵庫から、自分の白パンと大盛りレタスを取りだした。
彼がレタスに胡麻とケシの実のドレッシングを振りかける間に、紅葉はティーポッドにお湯を注ぎ、小さな3分砂時計の「start!」と書かれた面をひっくり返す。
時の砂つぶがサラサラと落ちてく間、ショーンはバタバタと、棚から愛用の湯呑みを、ふたつ引っぱり出した。紅葉はふふっと笑って、私物のオレンジマスタードを、コトンと彼の朝食の前へと置いた。
「今日はアルバの仕事を休みにしようと思う」
ショーンは、白パンにオレンジマスタードを掬って、塗った。
バターナイフを置きながら、静かに紅葉へ宣言する。
「おやすみ?」
「うん」
「そっか。じゃあ、みんなにそう伝えとくね」
「頼む」
砂時計が、最後の砂つぶをぽとりと落とした。
表がしっかり「fin.」と書かれているのを確認する。
紅葉は、桃色の釉薬が掛かった藍色の湯呑みに、出きたての菊水茶をサラサラ注いだ。
「今日は、外へ出かけにいく」
「いいね、どこ行くの?」
「あちこち。行きたい所があるんだ」
「行ってらっしゃい」
ふたりでお茶の香りを吸い込んだ。清く澄んだ青い香りがキッチンに広がる。遠くで子供が太鼓であそぶ音が聞こえた。窓からゆったりと風がそよぐ。いつもの鉄を叩く音は、今日はお休み。代わりにミソサザイが鳴いている。
サウザスで一番大きな酒場『ラタ・タッタ』は、いつも、こんな感じに時が過ぎていく──
──いや、3月7日の火曜日。
この日までは、そうだった。
この日を境に、ショーンと紅葉、サウザスで平和に住む何人かの、運命が大きく変わっていく事になる。
厄災は、いつも突然、音を立ててやってくる。