クラウディオの左人差し指から、勢いよく呪文が放たれた。
眩く輝く、黄色い閃光が、弾道のように猛スピードで大地をひた走る。
光はまっすぐ男の右肩へズドンと届き、そのまま左腰まで貫いた。
「さぁ、こちらに来るがいい! ハハーン!」
マント男はあらがう間もなく大地に倒れ、クラウディオの元へ勢いよく、着物ごと引きずられていった。
(こんな遠距離を……あの呪文で!)
ショーンは驚き、自分の真鍮眼鏡くらい丸くあんぐりと口を広げた。
磁力牽引呪文 《マグネス》。
この呪文は、己の人差し指を、羊飼いマグネスの杖の先端に見立てる呪文だ。指から黄色い光を飛ばし、光が吸着した相手を磁化させて、自分の元へ引っぱり寄せる効果をもつ。
昔ショーンが授業で習った時は、ものさし程度の至近距離から、ボタンを磁石に変化させて引っぱった。こんな遠距離で人ひとり引っぱれるような代物では決してなかった。
──だがこの状況。仮面の男が磁場発生呪文 《ノーザンクロス》で、強大な磁場を作り出した。これが発生している今だからこそ、クラウディオは、この距離と重量の牽引呪文を、なるべくマナを抑えて成功させたのだった。
「ハァーッ、ハッハッハ!相手の力をも利用する!——どうかね貴君?自ら生み出した磁力に苦しむがいい!」
男は地面をズルズル引きずられ、マントとズボンをさらにズタボロにしながら、着々とこちらへ近づいていた。クラウディオは腰に手をあて豪快に笑いながら、奴を待ち構えている。普通は真っ先に外れそうな木の葉の仮面と三角帽子は、強力に貼り付いているのか、いまだ敵の顔をしっかりと覆い隠していた。
「グゥ……く……ョーンさんっ、ブジっすか……?」
仮面の男に意識を集中させていたショーンは、ペーターのもがく声を捉えてハッとなった。地面に突き刺さるギャリバーの向こう側から、荒い息が聞こえる。
「ペーター!……ちょっと待っててくれ!」
周囲の警官たちは、全身に仕込んだ鉄製品のせいで、未だに地面に貼りつき動けない。磁場の影響も大きいためか、苦しむ声があちこちから響いている。軽装の自分がなんとかしなくちゃ。ショーンは、どうにかしてメットやベルトを脱げないかと体をまさぐり……カサッ、と小さな感触が布の奥で引っ掛かった。
(ペーターから貰った葉っぱ…………!)
これで何か変わるだろうか。
急いで口元へ持っていき、ガリっと囓った。
ズドッ、と一気に血脈が巡る。全身の血管が一気に膨張し、指先まで真っ赤に腫れ上がった。強靭なパワーが爪の先までガツンと行き渡り、そのままメットの鉄金具を引きちぎった。
「っおりゃあ——ッ!!」
ヘルメットを吹っ飛ばし、上半身が自由になった。勢いのまま腰の布ベルトも引きちぎり、ナイフを地面に置き土産して立ちあがる。ドクドクドクドク。血流が普段より何倍も速く体内を循環している。磁場の影響も感じない。嵐の海に揺られていたような脳内が、完全に凪いだようにクリアになった。
「あーっハハハッハハ、今ならなんでもできるぞお〜っ!!!!」
ショーンは、両手を振りあげて高笑いした。眼球が凄い勢いでグリグリと廻っている。今まで白紙だった、脳内の【星の魔術大綱】に文字と数字が次々と舞い戻ってきた。脳内でぺらぺらページをめくり……これだ。この呪文にしよう。体勢を立て直し、マナを体の必要な箇所へ行き渡らせた。右手が青白く光る。紅葉と警官に使われた失神呪文だ。
「────辞めたまえ! 辞めるんだショーン!!」
クラウディオが珍しく、まともな口調で叫んでいる。
仮面の男が、体を引きずられながらも身を起こした。
「……ダメっすぅ!」
心配そうなペーターの声は、ショーンの耳には届かなかった。
自分が “良きこと” をしていると完全に思い込んだまま、ズバンと失神呪文を男に飛ばした。
【いずれ安定へ向かうっ! 《ラディクル》】
青白い光が、ショーンの腕から放たれて荒野を走った。
マント男とは、現在200メートルほど離れている。
この距離と角度ならバッチリ当たる。
ショーンは勝利を確信した。
「やったー!」
──だが、呪文が放たれることを事前に察した男は、左手の人差し指、中指、薬指をグッと広げて、指で三角の形をすでに作っていた。
【冥界で己の咎を悔いろ。 《ゴルゴーンの娘》】
黒く眩ゆい光が3本指から溢れ、空中に、大きな黒い三角形が現れた。
「…あれは……っ」
クラウディオが珍しく狼狽した声を漏らした。
「ん?」
ショーンの眼球はなおもグルグル廻っている。
彼が飛ばした青白い光は、黒い三角形の真ん中にぶち当たり、そのままの大きさと角度で——しかし速さだけは加速し、跳ね返った。
「────えっ」
失神呪文の青白い光は、大地を猛スピードで元に戻り、唖然としているショーンの胸にドンッ、と勢いよく突き刺さった。
「……ぉン……さんっ!」
友情が芽生えたばかりの警官の嘆きが、コンベイの大地にかき消されて散っていく。
(……あんな、黒い、さんかく呪文……【星の魔術大綱】にあったっけ…………)
ショーンは胸に閃光が当たり、失神するまで0.13秒の間に浮かんだ疑問を、解けないまま気を失った。
「チッ——禁術呪文か」
クラウディオは己のマナを止め、人差し指の黄色い光を振り払った。このまま近くに引き寄せても危険なだけだ。
急に《マグネス》の呪文が解かれ、自由になった男は、「おや?」と疑問を浮かべながら立ちあがり、砂だらけになった衣服をぱっぱっと払った。
「貴君に問う! 望みはなんだ!」
クラウディオは吠えた。
無論、仮面の男は答えない。距離はここから150メートルといったところか。
コンベイの地に強い風が吹いている。帝国魔術師と謎の仮面の男は、互いに息を潜めて対峙した。
「アルバさま、頼む……これを解いてくれ……っ!」
クラウディオの運転手をしていた警官が、もがきながら彼に懇願してきた。依然として地面には強い磁場が発生している。クラウディオは片頬を上げ、シニカルな笑みを浮かべた。磁力を解く方法はあるものの、強力な禁術を使える相手に、迂闊にマナを消費するわけにはいかない。
あえて警官の要求を無視するクラウディオ苦渋の判断を、遠目から感じていたペーターは、この極めて絶望的な状況と己の無力さに地団駄を踏みたくなった。あの時、ショーンの呪文を制止できていれば……葉っぱを持たせていなければ……後悔の念が押し寄せる。さっきよりマシな事といえば、失神したショーンの体が、ペーターからだいぶ近くにいる事だった。
「——貴君の望みは何なのだ!」
クラウディオは、再び問うた。
仮面の男は、ひたすら無言で立っている。
彼は己の意思を伝える気はサラサラないようだ。
そしてクラウディオの方も、特段、答えを知りたい訳ではなかった。
(……彼は禁術を習得している。この人数を一瞬で殺すことなど、クッキーシューを頬張るよりも簡単だ。だが広範囲の磁場という、あえて費用対効果の非常に悪い手法を使った。“なるべく殺したくない” という想いがあるはずだ……!)
桃白豚族の帝国魔術師は、そこまで考え、ゴクリと生唾を呑み込んだ。
《禁術》──ルドモンドには、政府に禁じられた呪文が存在する。
その数、数百とも数千ともいわれ、呪文の文言すら公に知られておらず、魔術学校では簡単な歴史と概要のみを習う。【星の魔術大綱】にも存在が記されるのみで、当然収録はされていない。
禁じられた呪文の多くは、人々を恐怖に陥れるもの、死に至らしめるもの、極めて不安定で何が起きるか予測不能なもの……などなど。その多くが政府に禁じられて以降、誰にも使われず忘れ去られ、存在が失われている——はずなのだが、厄介なことに、恐怖、強力、かつ安定した禁術呪文のみをまとめた魔術大綱書が、この世には存在している。
その禁術書は、【星の魔術大綱】よろしく、呪文の文言、内容、マナの計算方法や必要量、はては挿絵まで丁寧に記載されている。かなり古い時代から存在が確認されており、売買、複製はおろか、所持だけでも逮捕の対象となる。ごく稀に闇のマーケットで流通する禁術大綱書だが、頭の痛いことに、どこぞの秘密結社によって今でも編纂と改訂が続けられているという。
クラウディオは数年前、帝国調査隊の仕事で、オックス州の秘術具蒐集家から押収した際に実物を確認した。逮捕の瞬間、蒐集家の爺さんはビッシリと血が染みついた本を大事に抱きかかえ、『これは【“光”の魔術大綱】なのだあ!』と気色悪いことを叫び続けていた。
禁書の中身を確認したところ、内容は死と血と腐敗と狂気で満ちており、怪物と臓物と骨だらけの挿絵の中に、確かあのゴルゴーン三姉妹の黒い三角形の絵も存在した。
目の前の仮面の男、そして彼の仲間と思われるユビキタスが、禁術大綱書で学んだ者の集まりならば……非常にまずい。恐ろしい事態だ。
「クックック……だからどうした?」
クラウディオは不敵に笑った。
止められる自信は正直なかった。仲間のショーンは失神し、警官は人質に取られたようなもの。
「素晴らしい……人生とは苦難が付き物……!」
磁場は相変わらず強力で、頭痛と吐き気は止まらない。立っているだけでも精一杯だ。
「かかってきたまえ、ショーーータイムだ!」
クルリと丸まったピンクの尻尾が、針金のようにピンと立つ。
もう一人のアルバであり、【帝国調査隊】の同胞、クレイト市警ベンジャミン・ダウエルが来るまで、彼ひとりで時間稼ぎするしかなかった。