第14章【Magnes】マグネス1

[意味]
磁石の呼び方の一つ。イダ山で磁石を発見した、羊飼いの男の名前に由来する。

[補足]
ローマ時代の学者プリニウスの『博物誌』第36巻25「磁石」によると、マグネスという男が家畜を放牧しているとき、サンダルの鉄釘や杖の先端に石がくっつく様子を見て、磁石を発見したという。ちなみに博物学者プリニウスは、79年のヴェスヴィオ火山の噴火調査で現場へ赴き、火山ガスによる窒息で亡くなった。


「ジーン・フェルジナンドが亡くなったって……?」
「ええ。明け方に訃報が」

 3月10日午前9時。出版社に出勤してきたジョゼフは、悲しそうに頭を振った。
「葬儀はいつからだね?」
「今晩18時です、社長」
 チン、とモイラは銀のタイプライターを打った。

「なんとまあ……彼女の活躍は先代からよく聞いていたよ。非常に腕のいい記者だった」
「ええ……ジーンが手掛けた特集記事は、まとめて倉庫に残っています。私もよく参考に」
 チン、カシャン、とモイラは再度タイプライターを強く打った。ジョゼフはバサバサと、今朝の新聞記事を大きく広げた。

【追悼 ジーン・フェルジナンド(森狐族、享年87歳) 東区12番街 元サウザス出版社・新聞記者】

 急遽、載せたジーンの顔写真は、いつものお悔やみ欄から少しはみ出して載っている。一張羅のスーツとブローチでめかしこみ、髪もきちんとセットアップし、ジョゼフに微笑みかけていた。

「明日ちゃんと彼女の特集記事を入れる予定です——むろん、校長の護送が最優先ですが」

 そんなモイラの机には、拘束具を着たユビキタスと囚人護送車の大写真が、物々しく広げられていた。州警察の護送軍団に、横で指揮を執るブーリン警部、真剣な目をした警官とアルバの顔写真、なぜか後をついていく紅葉の小写真まで……そんな緊張感の漂う取材写真の下から、陽気なパーティハットを被ったジョゼフの写真が、スルッと出てきて床に落ちた。

「これは……昔の社内パーティーの写真かい。えーと、6、7年前だったか」
「8年前です。ええ、ジーンの写真を使いたくて」

 カシャカシャと鳴るタイプライターの隣には、今より幾分若い——ジョゼフもモイラも随分若い——社員たちのパーティ写真が置かれていた。特に一番の古株ジーンは、当時、新聞社に入ったばかりの孫・アーサーの腕を組み、ひときわ嬉しそうに微笑んでいる。

「ああ、あの時の!……なぜこれを?」
「ご遺族に、お借りする時間がなかったものですから」

 何十枚もの白黒写真から、あの日の情景に色を浸けて思いだす。彼女のスーツは深いエメラルド色をしていて、『アーサーのピアスもエメラルドなの。おそろいよ』と自慢の孫を紹介していた。胸に輝くブローチは銀製、先代の社長からの贈り物だ。『私が死んだら一緒に燃やしてもらうつもりなの。デズ様のお導きで先代に会えるかもしれないからね』そんなことを言っていた。

「私もあの日、記事を褒めていただいて……このロングコートをいただきました」
 モイラが、タイプライターの音を止め、深く息を吸い込んだ。今日の彼女は、少し肩が褪せた、茶ベージュのロングコートを着ている。

 

 ふたりとも、目を閉じ、息を止め、デズの神へ静かに祈りを捧げた。
 それは、敬虔で、穏やかで、幸福な時間だった。
 おばあちゃんに、笑って全てを許してもらえたような、そんな温かな心地で満たされた。
 ——だから、ヒヤシンスを持つコリン駅長のとびきり笑顔を、ジーンのお悔やみ写真で覆い隠してしまったミスも、きっと許されるに違いない。

 数分間の祈りが終わり、モイラは再びタイプライターのキーに向き合い、ジョゼフは 新聞をそっと畳んで、机へ戻した。

「アーサーはしばらく忌引かい」
「ええ、もちろん」
 モイラが楽器を弾くように打刻を進める間、ジョゼフはミントコーヒーを淹れている。

「ふー、ジーンが亡くなったとなると……アーサーもじきにいなくなってしまうのかねえ」
 社長はため息をつきながらマグカップ2つにトポトポ注ぎ、新聞室長の席にもコトンと置いた。

「クレイト行きを必死に薦めていたのは社長じゃないですか。彼を持て余してたでしょう」
 バチャン、とモイラがタイプを戻す音が社内に響く。
 昨晩の警護官逃走事件、そしてアーサーが調べた、元クレイト市警高官による紹介状偽装記事。これが今日の新聞の一面だった。

 ミントコーヒー特有のツンとした蒸気が、社長の大きな丸眼鏡を一瞬、曇らせる。
「いやいや、状況は変わってしまった。今のサウザスにこそ居て欲しい人材だよ」
 彼は眼鏡を拭き直し、悲嘆に暮れた面持ちで、アーサーがいつも仮眠している奥のソファをじっと見つめた。

「不穏なことが多すぎる——彼の力が必要だ」

「————うああ゙ぁアあああああっ!!」

 斧を持った紅葉が、向こう見ずに、隊列の最後尾から、謎の男の元へ突っ込んでいった。
 紅葉はメットを脱ぎ捨て、鋼鉄の斧を革手袋でしかと握り、雷神のごとき形相で、コンベイの地を駆け抜けている。 
 強烈な磁力の影響で、地面にのめり込むほど引きずられた斧頭が、大きな黄土色の砂埃を巻き上げていた。

「…………ぉ………みぃ……じぃ!」
 ショーンは喉を締めつけられながら、彼女の名前を必死に呼んだ。
 ルドモンドで最も重い鉱石を持ち上げられるほどの怪力は、こんな磁場にさえ抗えるのか。
 糸のようにか細い声は、彼女の耳にはまったく届かず、紅葉の巻き上げた砂埃が、真鍮眼鏡に振りかかった。

「ああ゙ァああゝあぁあああああッ!」
 紅葉が駆ける地面から、強大な磁力の干渉が、徐々に薄くなっていった。
 のめり込んでいた斧の刃が、地面からズッ…と持ち上がる。

「————ッシ!」
 紅葉がニヤリと不敵に笑った。一層深く地面を蹴り、一直線に駆けていく。
 大鎌を振るう死神のように、男の頭めがけ垂直に、まっすぐ斧を振り下ろした。
 一方、男の方は、怯えたように軽く背を丸めた——が、斧が脳天へ届く直前、右手を袖の下からスバッと伸した。右腕が青白く光っている。

「…………もみじいいいいッ!」
 ショーンが、紅葉の名前を叫んだ。

【いずれ安定へ向かう。 《ラディクル》】

 先ほど警官へお見舞いしたのと同じ呪文を、奴は紅葉の胸に直撃させた。
 紅葉の体が、魂を失ったかのようにガクリと倒れ、急に主人を失ってしまった鉄斧も、傍らに転がった。

「はぁ、はあ…………っ!」

 あっという間の出来事だった。
 一個隊ごと地面へ沈めた、磁場呪文 《ノーザンクロス》。
 囚人護送車のみを空に飛ばした、磁場反発呪文 《サザンクロス》。
 車ごと物体移動させ、失神呪文を2発──。
 立て続けにこれだけ強力な呪文を放ち、涼しい顔をして立っている。こんな……魔術学校の教師並み……下手するとスーアルバ並みの相手に、いったい何ができるというのか。

(なにか、何か呪文を唱えなければ……)
 さっきまで熟読していた、文字と数字がビッシリ書かれた【星の魔術大綱】は、脳内ですべて白く塗りつぶされてしまって、無為にパラパラめくれていく。
(何も……なにも浮かばない……!)
 ショーンが大粒の涙を流した瞬間、ちょうど右方から大きな声が響いた。

ハーッハハッハ!! レディに乱暴するなんて宜しくないなあ、貴君!」

 左手の人差し指をピンと立て、黄土色の砂まみれの高級スーツで仁王立ちし、高笑いする人物がいた。

 ラヴァ州とオックス州を股に掛ける帝国調査隊——クラウディオ・ドンパルダス。
 マントの下からは、くるんとキュートなピンクの尻尾が見え隠れしている。
 彼の人差し指から、黄色い光が輝いた。

「キミも泥に塗れたまえ」

【迷える羊は杖に引きつけられ道を正す。 《マグネス》】