3月8日地曜日、時刻は午後11時を過ぎていた。
半日ぶりに荷物を戻されたショーンは、サッチェル鞄を肩へ担いだ。
警察と警備に取り巻かれ、役場の正面玄関の扉から出ると、まばらな野次馬たちの脇から妙に強い視線を感じた。
「──紅葉?」
見慣れた黒髪が夜風に揺れている。驚いたような、嬉しいような、複雑な黒い瞳をしていた。彼女が唯一普段と違うのは、小さな2本のむき出しの角が、前髪から覗いている事だ。
出会うはずのない時間と場所で鉢合わせたことに動揺し、ふたりの間に一瞬変な空気が流れた。
「……まさか僕を待ってた?」
「いーっ、違う違う。たまたまだよ……」
「夕方帰ったって聞いたけど、警察に伝えることでもあるのか」
「うっ、ううん! 大丈夫……」
結局はぐらかされてしまった。紅葉がここにいる理由も謎だが、それ以上に彼女の顔色が悪そうだった。角も、濁って変な色をしている。こんなに濁った姿を見たのは、ショーンが12歳の時に、学校でアントンに突き飛ばされて、彼女が怒り狂って以来だ。
「警察が用意してくれたんだ。紅葉も乗ってく?」
「うん……馬車なんて何年ぶりだろう、凄いね……」
いつもの紅葉ならもっとはしゃぐのに、やはり元気がない。馬車に乗っても濁った光が治らなかった。ショーンは自分のターバンを取って、彼女の頭の上にクシャっと乗せた。
「よしっ」
「え、ええっ……」
紅葉は戸惑い、慌てて取ろうとしていたものの……押し問答の末、ターバンを頭の上に乗せたまま酒場へ帰ることとなった。彼女はきっと、ショーンの優しさが染み入ったに違いない。
馬車は、カポカポと静かに蹄鉄を鳴らし、厳かに目的地へ到着した。
ふたりは酒場の玄関をチラ見し、勝手口から下宿へ帰った。
いつもはこの時間帯でも騒がしいはずだが、今日はかなり静かだった。
「そういえば太鼓隊はどうした。休んだのか?」
「……隊のみんなが来なくて、今日は公演中止」
「ショックで? まあ、そうか……」
「明日は酒場も休みだし、みんな落ち着くといいね」
明日は水曜日。水の神に休んでいただくために、酒場や喫茶店や市場などが一部を除いて休みになる。酒場ラタ・タッタも、太鼓隊と共にお休みだ。
「はぁ〜っ、僕は明日もきっと役場だ」
ため息まじりに愚痴ったら、一日の疲れが一気に押し寄せてしまった。
紅葉が、神妙な顔でシャワーを譲ってくれたので、先に浴びて歯を磨き、すぐ自室へ戻ろうとしたところ……怖い顔をした彼女に引き止められた。
「お茶飲んで、ショーン」
「えー、眠いよ」
「白胡麻茶。疲れが取れるから!」
焼いた胡麻の香ばしい匂いは、確かにショーンの疲れた体を癒してくれたが、それよりベッドで眠りたかった。
「僕もう寝たいんだけど」
「だめ、ちょっと待って!」
必死の形相の紅葉に、部屋に戻るのを引き止められた。今日ショーンの身に何があったか詳しく聞きだされ、その後、紅葉の身に何があったか懇々と聞かされた。
重い瞼をなんとか片手で開けながら、傾聴していたショーンは──新聞記者アーサーの推理のくだりに、顎が外れたように口を開けた。
「アルバの力を見るため?……なんだそれ…」
「何か、心当たりは──」
「ない、ないよ!」
町長が失踪したのかも分からないし、どこにいるのかも不明。
町長の尻尾が駅に吊るされて、轢かれた理由も不明。
町長の失踪事件の際、呪文を使って窓を開閉した人物がいる。
10年前に起きた紅葉の事件と関わっているかも不明。
新聞記者アーサーは何かの情報を握っているのか、アルバとの関係を口にした。
「…………わけの分からないことが多すぎる……」
「……うん」
ショーンはようやく紅葉から解放された。泥のようにベッドに入り込んだものの、謎がぐるぐる頭の中をめぐり、枕の上で様々な人物が交錯していた。
自分がアルバとして何をすべきか、何ができるのか混乱したまま、レムの海へ水没していった。
3月9日水曜日。時刻は朝。
疲れが全く取れてないショーンは、ひどい状態でキッチンに降りた。
紅葉は既にしっかり着替えてて、静かにお茶を飲んでいた。深緑のタイカラーブラウスに、ベージュの刺繍入り革ベスト。チェック柄の灰色のショートパンツと、昨日よりちょっといい服を着て、髪にはしっかり芙蓉の角花飾りをつけている。
紅葉はなぜか財布の金を数えており、寝起きのショーンを見て、ティーポットからお茶を注いだ。
「ショーン。私、これから新聞社に行ってくるよ」
「……ああ」
「ほかに、何かすることある?」
紅葉の瞳が、じっとショーンを見つめる。
「『する』って………何を?」
ショーンがお茶をすすりながら紅葉に聴いた。寝ぼけた頭で飲むお茶は、何の味も感じない。
「だから事件を解決するのに。ほら、ショーンは動けないでしょ?」
息巻く紅葉は、強く拳を握っていたが──怪訝なツラをしたままのショーンを見て、徐々に顔を曇らせた。
「……別に何もしなくていいよ」
「…………えっ……なんで?」
変な、重い空気が、静かなキッチンに充満する。ショーンはなぜ、彼女がこんなに事件に突っ込んでくるのか、初めはピンときてなかったが……
(……そういえば、紅葉は、新聞社に自分の意志で行ったんだっけ……)
ショーンと違い要請ではなく、自ら、情報を掴もうとしてる事に思い至った。
「じゃあ、新聞社行った後は……すぐ僕のとこに来て教えてくれ。たぶん僕は一日中役場にいるから。それ聞いて、今後どうするか考えよう」
「……うん」
「あんま危険なことするなよ」
「大丈夫だよ」
紅葉は、古いフライパンを、キッチンの戸棚の奥から取り出した。
「これでよし!」
「それで何する気だ」
「用心棒だよっ。じゃあ行ってくるね!」
フライパンと財布を手に元気よく紅葉が去っていき、ショーンはひとり取り残された。ミソサザイが遠くで鳴いている。だんだん目が覚めてきて、じんわりとお茶の味が判ってきた。
なんで紅葉はあんなに必死なんだろう。窓の外には、一昨日と何一つ変わらない、のどかなサウザスの風景が広がっているのに。ショーンは宙に浮かんだ疑問をボンヤリと考える。
(────だって、彼女も事件の当事者じゃないか)
その事実にようやく思い至り、ぞわぞわとした恐怖が尻尾の付け根に広がった。ひとりで行かせてしまった事をようやく後悔し始めたけど、警察でも名探偵でも帝国調査隊ですらない、ただのアルバのショーンには、何をどうすればいいのか分からなかった。
「アーサーは出かけています。どこへ行ったかは知らないわ」
バチャンと処刑のような金属音を立てて、モイラが答えた。
サウザス出版社2階の新聞室。室長のモイラは、紅葉に一瞥もくれず、黙々と手元のタイプライターを動かしていた。
「………その、心当たりとかは」
「彼はね、Sleuthとしては優秀かもしれないけど、Journalistとしてはイマイチね」
Sleuthってなんだろう。そう疑問に思ったけれど、眼鏡を鋭く光らせバチャバチャとキーを叩き続けるモイラの勢いに気圧され、何も聴けなかった。
「その右に積み上がってるの一番上の記事を見て。赤でチェックしてあるから」
「これですか?」
コリン駅長の特集記事だった。定年の引退記念に、彼の生い立ちとインタビューが複数行に渡って組まれており、日付は2週間前となっている。
「そこに、あなたの事件のことも書いてあるわ」
「………っ!」
新聞の1段を丸々使い、確かに10年前の事件のことが書かれていた。少女が吊るされてるのを見て列車を急いで止めたことや、ショーンの両親に報告し、動向を見守っていたことなどが書かれている。
「私はね、それがこの事件の、引き金になったんじゃないかと思っているのよ」
バチン!と、タイプライターのキャリッジを動かし、文章が改行された。
「モイラさん、これ持って行っていいですか?」
「1ドミーよ。」
バチン!と、またタイプが大きく鳴った。紅葉は財布から小銭を置いて、急いで新聞室を出て行った。
「……ああ、もう来てくれたのか。後でもいいのに」
出版社社長のジョゼフは、1階の社長室のデスクで、目をショボショボさせて突っ伏していた。
「ええと、代金は203ドミー。グレスでもいいよ」
「ニヒャクサン……」
泣きながら2グレスと3ドミーを彼に渡した。
「何か情報持ってきてくれたら買うからね」
ジョゼフはニコニコと終始笑顔でホッとしたが、肝心のアーサーがいないのでは非常に困る。
「アーサーの居場所? サァねえ、あの子は神出鬼没だから」
「……そこをなんとか!」
「うーん、行きつけのお店なら知ってるよ。メロウムーンって居酒屋さ」
「『メロウムーン』……東区ですか?」
「そうそう。青空床屋の裏手に、黄色い屋根の店があるだろう、あそこだよ。昼間は喫茶店で、夜は居酒屋をやっている。店主は青羆熊族で、安くて旨くて評判の……ああでも今日は水曜日か、お休みだねえ」
──そうだった。紅葉は肩をガックリ落として出版社を後にした。
得たものは、すっかり軽くなった財布と、2週間前の新聞記事と、アーサー行きつけの店名だけ。
さて、これからどこへ行こうか。