第1章【Rat-a-tat】ラタ・タッタ2

 ショーンらが住むここ『酒場ラタ・タッタ』。

 創業68年目を迎える、大きな2階建ての建物だ。
 古びたワインウッドの外壁で、三角屋根も濃い紅色である。南北に長く、南側を酒場で使い、北側が下宿となっている。

 下宿は全部で8部屋あり、創業当初はホテルとして営業していたが、管理が大変だったのか、すぐ下宿屋に変わってしまったようだ。酒場は北大通りに玄関を面しており、町で一番大きな店として毎晩賑わいを見せている。

 町の通りから店を見上げると、Rat-a-tat と、オレンジ色のペンキで描かれた店名がまず見える。店名下の玄関ポーチを数段上がると、モスグリーンの両面扉が出迎える。夜5時が営業の始まりだ。

 

 まずは左のフロントで、人数を告げよう。

 昔の名残のホテルのように豪華なフロントデスクは、荷物を預けることも可能だ。フロント脇の廊下には、傘立てや新聞、電報台など、ごちゃごちゃした物が置いてあり、奥には便所のドアがある。

 扉の右手には、大きなバーカウンター。背の高いチェアが6脚ほど並んでおり、奥には高価な酒瓶の数々が、キャメル色の棚に燦爛と収まっている。バーのマスターは常にこのカウンターに立ち、シャカシャカとシェイカーを振っている。彼が、酒場ラタ・タッタ4代目のオーナーだ。

 バーの横には小さな階段があり、地下の炊事場で作られた料理やビールが、続々と運搬されていく。

 酒場中央は、吹き抜けの大広間。テーブルとベンチが縦横無尽に並んでおり、酒や食器が毎晩派手に飛びかっている。広間は薪ストーヴで暖かい。このストーヴの傍には常に給仕がついていて、食事を温め直したり、お茶を注いだりしてくれる。温め直したソーセージは、二度美味しくて最高だ。

 

 そしてメインホールの一番奥は、この酒場一番の売り──太鼓隊が舞台に立って、毎晩太鼓を演奏している。

 上演は一日3回で、一公演40分。ラタ・タッタの客たちは、酒と太鼓を浴びるため、毎晩ここへやってくる。

 紅葉は、この太鼓隊の一員だ。彼女は5年前に酒場の従業員となり、昼は下宿の雑用と練習、夜は舞台で演奏している。
 日中、アルバの務めを果たしたショーンは、彼女たち太鼓隊の曲を聴きながら、酒場で夕食を取るのが常だった。

 

 

 今日は3月6日の銀曜日。

 時刻は開店から少し経った夜6時。
 下宿から出てきたショーンは、いつものように酒場2階の中央右端のテーブルに座った。手すりから身を乗り出し、1階カウンターに最初の一杯を注文する。
「マスター、ファンロンの松黄茶を一杯!」
 この時間帯は人も少なく、長閑なひとときが味わえる。
 ショーンは頬杖をつきながら、分厚いメニュー表を眺め、野菜と豆のホワイトスープに、ディルのピクルス、黒パンを、再度マスターに注文した。 

「はぁい、ショーン」
「おう」
 同じ下宿の住民で、はす向かいに住むマドカが、小走りに出てきて挨拶し、1階へと降りていった。

 酒場2階は上から見ると「凹」の形をした回廊だ。
 回廊左に階段があり、右に下宿所のドアがある。ドアは常時鍵が掛けられ、酒場の客は入れない。たまにマドカら下宿人が、客を引っかけ、部屋へ連れこんだりもする。が……深入りはしないでおこう。ショーンはここの特等席で、太鼓隊を聴きながら、静かに夕飯を取るだけだ。

 舞台上では、準備中の紅葉たちが、軽く太鼓のリズムを取っていた。
 舞台奥の壁には、酒場の創業当時からある、大きな深緑のタペストリー。森の中で巻鹿族の女性が、竪琴を手に持ち、小鳥たちに音楽を聴かせ歌っている。彼女の長い髪や優美な手つきが、刺繍で緻密に丁寧に描写されているのだ。

 ショーンはこのタペストリーが大好きで、見ていると少し、母親のことを思い出す。

 

 

 ──チャンチャンチャン!

「曲、行くよー!」
 紅葉がバチを鳴らして音頭を取り、楽隊の演奏が始まった。今日最初の演目は、リズミカルで陽気なナンバー、火の神に捧げる音楽だ。

「おいショーン。酒より高いお茶を酒場で頼むな!」
「なんだよリュカ。人の勝手だろ」
「恥ずかしいんだよ、酒場でティーポット持って歩くの!」
 ドンドゴ、ドンドン。ドンドコドンドン。太鼓の音が鳴り響く。
 あれからいったん家に戻り、鍛冶屋の勤めを終えたリュカが、また酒場へとやってきた。ショーンが注文した分も一緒にお盆に持っている。リュカは週に最低2日は、ここへ酒を飲みにやってくる。

「早く寄こせよ、昼の緑山茶は煮出しすぎて失敗しちゃったんだから! 松黄茶も、お湯の中の開花時期が重要なんだ!」
「うるせえ何が松黄茶だ! 松ぼっくりでも口突っこんでろ!」
 ふたりで仲良く喧嘩しながら、ガチャガチャと生きる糧をテーブルに並べた。昼間、火傷で爛れたリュカの左腕は、すっかり元の皮膚へと戻っている。

「あー、これこれ」
 アスパラガスとインゲン豆のホワイトスープを、樫の木のスプーンで掬いつつ、煮出した松黄茶を茶杯へトポトポ注いだ。鮮やかな橙色をした杏柄のティーカップに、淡い薄黄色のお茶の色合いが、よく映える。
「美味いわぁ〜」

 

「おい、そこの草食動物。肉いるか?」

 リュカの今日の食事は、クルミとサンシュユをまぶした肉ローストに、くたくたに茹でたキャベツと人参、ルオーヌ州の蜂蜜酒だ。彼は、太い腕に似つかわしくないほど、器用に銀のナイフとフォークを操り、ピンク色のロースト肉を、美しく丁寧に薄切りしている。ショーンは片目を軽く閉じ、肉を少し引き気味に眺めて、こう答えた。

「ひと切れだけ」
 ショーンのアイデンティティたる「羊猿族」は、食については羊の特性が強い民族である。肉はほとんど食べないが、少しだけ、口直しにいただくことはある。リュカは薄切り肉を、これまたナイフで丁寧に包んで三角に巻き、ティーソーサーの縁にそっと置いた。

「どうも」
 ショーンは、カップ全体にふわりと広がる松黄茶の花を、木のスプーンでくるくる回しつつ返事した。太鼓隊の演奏は次の曲へと向かっており、水の神に捧ぐ、しっとりした波のバラードに移りかわった。

 

「今日は妙に客が多いな。そうか……明日は鉱山休みか」
「明日は火曜日だからな。んー市場に買い物でも行くか」

 毎日アルバとして働くショーンと違い、鍛冶屋で働くリュカには、毎週休みが存在する。毎週火曜日ひようびは、火の神様に休んでいただくために、鉱山や鍛冶場は原則休みだ。鉱夫たちが集まる酒場の、銀曜夜は、どこかそぞろめいている。

「今、珍しい香辛料が入ってるんだ。クレイト市の商人が、大陸中から集めた新商品を持ってきたって」
「へぇー」
「今のうちにたくさん買っておこうかな。次いつ来るか分かんないし」
「いいんじゃないか」
「あと花山椒だろ、青山椒だろ。カルダモンにミロバランに、ナッツ類もいくつか欲しいな」
「何を作る気だよ」
「肉料理が作りたいなあ。そのまま食べてても、スープにしても美味しいような」

 リュカがピンクの頬を紅潮させ、瞳をキラキラさせて語った。

 彼は、料理が好きなのだ。

 

 幼少期には、野草をちぎって丸めた餅やトウガラシを練りこんだケーキを、せっせと作り、ショーンにむりやり食べさせていた。味はどれも刺激的で、たいへん ”テリブリィー” な味がした。
 
 ショーンがアルバの資格を得るため、帝都の魔術学校へと入学した際、彼の料理を口にしなくて済んで、心寂しく……非常にせいせいした。ショーンの不在期間中は、紅葉が犠牲になったようだ。

「そうだ。本も買おう! こないだ卵レシピの本見たんだよ」
「料理本か?」
「うん。新聞広告で。卵料理だけで何百ページもあるんだ、凄いだろ」
「へー」
「ちょっと中身も載ってて、ベアルネーズソースってのがあるらしいな」
「なんだそれ、卵で作るのか」
「そうそう。卵とバターとワインにビネガー、それに少量のタラゴンとエシャロットとチャービルを混ぜて」
「………なに?」

 呪文のような具材を唱え、料理について熱く語りながら、リュカは、分厚いローストをすべて綺麗に切り終えていた。大きな塊だったロースト肉が、皿の上で、等間隔に薄く美しく並んでいる。

 上京して5年の間、ショーンは学校で魔術をみっちり勉強し、無事にアルバの資格を得て、戻ってきた。初々しいアルバ様を、帰郷そうそう待っていたのは、親友が手塩をこめて作ってくれた、フルコースの晩餐だった。

『リュカ。これは……なんだ?』
『まあ食え食え。うまいぞ、まずはオードブルだ!』

 サーモンのゼリー寄せを勧められ、ブルブルと震える手で、口に運んだ。──すると、どうだろう。含んだ瞬間、まろやかで酸っぱい、爽やかな風味が舌に広がっていた。その後、口にした料理はどれも美味しく、ラタ・タッタのレシピより優れていると感じた皿も、中にはあった。

 長年、勉強していたのは、ショーンだけじゃなかったのだ。

「……で、最後に塩胡椒で味を整える、と」
「まあ味はわからんけど、旨そうだな」
「だろ? 実際に作ってみたいな〜、香辛料が揃わないとな」
「市場で売ってるといいな」
「ああ」

 腕の立つ鍛冶職人が多く住むここサウザスで、最も名高いと評判の『鍛冶屋トール』の、現当主の息子リュカ。

 彼は現在、鍛冶より料理に夢中だった。

 

 

 ──ダガ、ッダン!

「みんなー、引き続きお酒楽しんでいってね!」
 演奏終了。
 本日1回目の演奏を終えた紅葉が、足早にショーン達のテーブルにやってきた。彼女は太鼓隊の装いのまま、食事のお盆を手にしている。

 黒の丸首シャツに、両肩にふわふわのファーがついた焦茶のチョッキ。紅色の牡丹唐草の模様が、ボタン周りと背中に編み込まれている。髪には、椿の花飾りを左右に咲かせ、ニコニコと友人たちの間に座った。

「お疲れリュカ、ショーン。わぁすごい、もう火傷治ってるんだ」
「僕のおかげだぞ。もっと敬え!」

 次の公演まであと40分。毎晩こうして1回目の公演終わりに、彼らは共に夕飯を取っている。
 今日の紅葉の夕飯は、味噌焼きおにぎりと、茶碗いっぱいの蕪汁に、蓮の葉茶。質素に済ませるかと思いきや、リュカの皿から薄切り肉を、ヒョイヒョイ箸でくすねていた。

「はいはい、すごいすごい」
「あと昼間のお茶が濃かった!」
「えー煮出しすぎたかなあ。あ……砂時計を2回まわしちゃったかも」
「なんでだよっ」

 サラサラとあしらう紅葉に、ますますショーンの機嫌が悪くなった。彼の長い猿の尻尾が、イライラして左右へ揺れる。

「いやぁ砂時計って上下同じ形じゃない? クルって回すと『あれ、どっちだっけ』ってなって。まーたクルって回しちゃうんだよねー」
「ならシールでも貼っとけ。『始』『終』って書いて! そうすれば間違えないだろ!」
「なるほど、それなら間違えないねっ。さすがアルバ様!」
「アルバを安呼びするなよっ!」
「うるせえぞ、ショーン!」

 リュカが机を、バン! と叩いて一瞬、皿と椅子が浮き上がった。怒鳴られたショーンは『ぐぅ』と猿の尻尾の先を丸めた。

「あぁもう……よくこんなキレてて平気だな、紅葉」
「うーん、いつもはここまでじゃ……最近イライラしてるよね。男の子の日?」
「違うわ!」

 パシッ、とショーンも勢いよく机を叩いたものの、さすがに浮き上がりはしなかった。紅葉とショーンの体積を合わせたより、リュカは大きい。

「もー2人とも机を叩かないでよ。そうだ太鼓を叩いてみたら? スッキリするよ。きっと」
「…………んん」

 それは良いアイディアだった。しかし、彼の心のモヤモヤは、太鼓を叩いた所で晴れるだろうか。

 

 太鼓隊の演奏終わりの銀曜日。酒場はどこも、おしゃべりに花が咲いている。
 リュカは紅葉に、今日火傷した経緯を話しはじめた。午前中、賄い料理で揚げ物を作ったときの悲劇らしい。
 手持ち無沙汰のショーンは、大人しくサンシュユの実をコリコリ齧りながら聞いていた。尻尾も落ちついて、フヨフヨと椅子の間を漂っている。

「──そういえば、あれからお部屋片付けた?」
「してない! 今忙しいんだよっ」

 火傷したリュカが、ショーンの部屋に入ったくだりで、紅葉が逆鱗に触れてしまった。一食触発の気配が漂う。猿の尻尾がビンッ、と毛羽立つ。

「なんだよ、そんな目で僕を見るな! 僕に説教するな!」
「いいから毎晩ダラダラお茶飲んでないで、掃除してこいよ」
「しかも、深夜までクダ巻くし。お茶で」
 しかし幼馴染の扱いは、冷えたスープよりも冷たかった。

「僕に説教するなあ────うわぁあああああ!」

 ついに沸点を超えたショーンは頭を抱えて机に突っ伏し、スープポットにドボンッ! と顔を突っこんだ。
「……あーあ、何やってんだ」

「……きっと疲れてるんだよ……ずっと休みがないもんね」
 顔を突っこんだまま『ア゛ア゛ア゛ア゛ッ』と叫び続ける友人の背中を、ふたりは交互に優しくさすった。

 

 アルバになって3年目。
 毎日毎日、下宿でケガ人の手当てをし、
 夜は酒場で酔っ払いの喧騒を聴き、
 浴びるようにお茶を飲む。

「…………気がくるいそう……。」

 びちゃびちゃのクリームスープを顔から垂れ流し、若きアルバ、ショーン・ターナーは、そろそろ精神に限界が来ていた。