第15章【Memorial party】葬礼饗宴2

 現在時刻は10時半。パーティーを始めるのはお昼過ぎ。2日寝ていないアーサーは、流石に疲労で首を振り、眠気覚ましに切ったばかりのオレンジを齧った。メモリアル・パーティーには、故人の好物、神の好物、家族料理を並べるのが習わしだ。フェルジナンド家の定番は、レーズンとクルミ入りの大麦パンに、香草とスパイスをたっぷり入れた雉肉パイ、そして今つくりかけてるオレンジケーキ……全部ジーンもアーサーも大好きだった。

「……ふぅ」
 ついつい3切れほど食べてしまった。酸味と甘みで目が冴える。

 子供の頃、オレンジの成る季節になると、毎週のように家族持ち回りでオレンジケーキを焼いた。祖母のジーンは、ケーキの周りにオレンジスライスを乗せるのを得意とし、母のジェシカはスポンジに紅茶の汁を混ぜて作るのが好きだった。親父のフィリップは甘党で、蜂蜜クリームのたっぷりケーキ。俺は……ラム酒を入れると大人になった気がして、ドバドバ入れた……弟たちは、

「おーいアーサー、今日の喪主はお前さんかい。弟たちに連絡は?」

 椅子をかかえた隣の部屋の爺さんが、玄関ドアの小窓から顔をヒョッコリ覗かせた。

「お久しぶりです、ゲランさん。残念ながら、みんな消息不明なんですよ」
 キッチンテーブルの前で、オレンジ剥きを再開したアーサーは、隣人にニッコリ笑顔を向けた。

——こらアンタ! そんなの聞いちゃダメじゃない、デリカシー無いったら! アーサー、困ったことがあったら何でも相談してちょうだいね!」
 奥さんが、オタマでパシパシ爺さんの肩を叩きながら、大量に抱えた丸テーブルを持っていった。……嫌な予感がして庭を覗くと、思ったより人が集まっている。

 今日は3月10日、風曜日。
 風曜日を信仰する職業は、運輸、旅行、新聞業など。本来、休みのない職場がほとんどだ。とうぜん新聞関係者は欠席で——といっても、貧民街じゃヒマな爺さん婆さんばかりな上に、ジーンはこの辺の長老ポジションだったから、アパート住民以外にも、続々と近所の人が集まっていた。

「…………これじゃあ材料が足りない、か?」
 果物箱いっぱいに購入したはずのオレンジは、小窓からそよそよと吹く風で起きる、小さなさざなみとなって揺られている。アーサーはふたたび外を覗いて、水甕に浮かぶオレンジを交互に見た。想定のおよそ3倍の人数が、庭を行ったり来たりしている。

「……ふぅーっ」

 アーサーは再度ため息をついて仰け反った。大麦パンと雉肉パイはともかく、家でいちばん大事なオレンジケーキは、全員に行き渡るよう振る舞いたい。

「取り皿とフォークが足りないわ!」
「誰かもっとレモンビールを持ってきてちょうだい!」
「やだ、ちょっと、こぼさないでよ!」

 喧騒が徐々に殺気立ってきた。古びた丸椅子、歪な形のテーブル、色褪せたテーブルクロス……エプロンをつけた貧民街の住人たちが、せっせせっせと運んでいる。火をつけたローソクの燭台が危なっかしい。縁の欠けた皿に盛られた、出来立てホカホカの料理たちに、大小銘柄さまざまな、飲みかけかも分からぬ酒瓶たちが、賑やかに並んでいる。

 主役のジーンは真っ白なおくるみに包まれて、緑色のキルトを肩にかけ、周りの喧騒などどこ吹く風で、穏やかそうに眠っている。

「…………参ったな。これは、だいぶ……大所帯だ」
 もはや全員席に座れるとは到底思えず、立席パーティーの様を呈していた。庭の花壇のレンガを積んで作った風の神様の祭壇が、とても “つつましい” ものに感じられる。

 このところ痛ましい事件が続いた。不安とストレスを解消するよう人が集まり、あるいは料理や酒に釣られて、お茶会どころか、貧民街あげての大宴会が開催されようとしていた。

 周りが慌ただしく動き回る中、アパートの軒下のベンチに、唯一、空気の違う人物がいた。役場の夜警マドカ・サイモンが、眠そうにぷかぷかとタバコをくゆらせている。

 外階段から降りてきたアーサーは、彼女の背中に声をかけた。
「やあマドカ。居たのか」
「ん……」
「眠いだろ。ベッドで寝るか?」
「んー」

 マドカは重たい瞼の代わりに、タバコをクイっと動かした。返事はするが、その場から動きそうにない。背中に生えた翼の羽毛が、風にフワフワと揺れている。

「ちょっとケーキの材料を買い足してくる」
「ん?」
「雉肉パイをオーブンから出しといてくれ。後10分ほどで完成する」
「ん〜」

 ポトン、と彼女は灰を落として俯いた。
 アーサーは緋色の腰エプロンを、マドカが座るベンチの手すりに置いて、胸ポケットのペンと手帳と財布だけを持って、市場へ向かった。  

 日差しが暑い。風が吹いて良い陽気だ。これからピクニックが始まるような。
 アーサーは狭い路地裏を歩いて、市場へ向かった。

 ——しかし、葬礼饗宴……メモリアル・パーティーというのは、つくづく不思議なシステムだ。どんなに辛く悲しい時でも、祭壇を飾り、お祝いの料理をこさえるうちに、晴れやかな気分になってしまう。どうせ、この後に待っている火葬と埋葬の儀で、号泣するんだろうけど……宴会の時だけは、明るく元気に陽気にいられる。

 昔、母親が亡くなった時もそうだった。父親の消息が絶え、探しに行った弟たちとも徐々に連絡が途絶えていき……最愛の母ジェシカも失った。葬儀ではずっと泣いていたはずのに、今思い出すのは、食事会で祖母と作った甘いオレンジケーキの味だ。母が好きな紅茶をたっぷり入れたクリームの……。

 その時、路地の正面からチリンチリンと自転車がきて、アーサーは寸前のところで躱した。

 ……危ない。昨日から一睡もしていない。おまけに連日の事件調査の疲労も残っている。アーサーは、らしくなく壁に手を当てて、腰を屈めてその場にうずくまった。

『——みんな消息不明なんですよ——』

 父フィリップの葬式は未だに行われていない。クレイトにいるはずの弟たちも行方知れず。……まあ弟2人は、さすがに生きていると思うが。今まで祖母を置いて行けなかった。サウザス内で監視していたユビキタスも、今日でクレイトに行ってしまった。もう、この町に留まる意味は薄い。

「クレイト新聞に就職できるかな…………社長のコネで……。フッ」
 そう独りごちて、再び顔をあげた。今はとにかく市場へ行かなきゃ。必要なのは、オレンジ、バター、砂糖、ミルク、バニラビーンズ……小麦粉はいっぱいあるから良いとして……後はレモンも買おう。俺も、マドカも、神様も、レモンビールが好きなんだ。

 チリンチリンとまた後ろから自転車が来て、道を譲る。まったく狭い路地裏だ。落書きだらけな汚い壁のあちこちに、町長オーガスタス失踪事件の目撃情報を求むポスターが貼ってある。

「行方不明のままだと、葬式すらあげられないな……」
 そうだ、クレイトに行く前に、町長を見つけてやらないと。アーサーには、組織の件を黙っていた責任を果たす義務がある。……ああでも、自分の体調も今は良くない。今夜は祖母を弔って、ゆっくり休もう……そう唸っていると、路地の正面から、砂鼠族の男がコツコツと歩いてくるのに気付いた。

 あれは、コスタンティーノ兄弟の誰かだ。背が高くて細い、柔らかな顔立ち。四男のファビオか、五男のステファノ……いや、違う、

「————エミリオ!?」

 末男のエミリオが……【自分の足で、歩いている】。

 一瞬の意識が遅れた。
 逃げようと、踝を返したその瞬間————
 アーサーの首に、大きな包丁の切っ先が、深くめり込んでいた。