[意味]
ルネサンス期に活躍したイタリアのフレスコ画家、フランチェスコ・デル・コッサ。(1436年〜1478年)
[補足]
イタリア北方で活躍した画家。壁画や祭壇画を制作した。代表作はドレスデンのアルテ・マイスター絵画館に収蔵された『受胎告知』、フェッラーラのスキファノイア宮殿の壁画『月暦』である。彼は『月暦』の3月から5月までを担当し、3月の壁画には牡羊座と『ミネルヴァの勝利』が描かれている。
今から3年前。サウザスに帰ってきたショーンが、きらきらした顔で紅葉に光る物体を見せつけてきた。
「紅葉、見てくれ! これが【真鍮眼鏡】だっ!」
彼がアルバになって一番初めに見せたかったのが、この眼鏡だ。ぴかぴかと真鍮色に光っていて、小さな蔦の葉がとても可愛いらしい。
両親のものは見慣れすぎて何の感情も湧かなかったが、いざ自分の眼鏡を持ってみたら、非常に愛おしく美しく、自分の子供のように感じてしまう。
州から支給されたばかりの眼鏡箱から取り出し、紅葉の前に披露した。
「わぁ〜すごいね、ショーン。それ掛けると別人みたい」
「そう、僕は生まれ変わった!……うおっと!」
眼鏡を掛け、ポーズをとってキメようとしたところ、立ち眩みに襲われたかのごとく脚がふらついてしまった。
「わっ、ちょっと大丈夫?」
「……まだ重い。」
真鍮眼鏡には、マナを持たない生物が触れた時、ものすごく重たく感じるように特殊な魔術がかけられている。それはルドモンドで最も重い鉱物よりも、重たく感じるそうで……マナが少ない一般人にとっては、持ち上げることはおろか、押すことすら困難だ。
「どのくらい重たいの?」
「僕にとっては、うーん、ちょっとした鉛くらいの重さかなぁ……そうだ、紅葉も試しに持ってみるか?」
「うん!」
マナのない者に眼鏡を持たせる時は、必ず平らな場所に置いて触らせるよう、厳重に注意されている。親や恋人に気軽に渡した結果、相手の指を砕いてしまった事例が、5年に1度は発生しているからだ。
ショーンは、サイドテーブルの上に置き、眼鏡のツル部分をそっと持つよう彼女に指示した。
「上に持ち上げればいいのね……よい、しょっと!」
両手で眼鏡を持った紅葉が、思いきり、グググッ……と上へと持ち上げた。
「…………嘘だろ」
数センチ、ほんの数センチだが、テーブルから眼鏡が離れて浮いている。
マナが0の——母親から昔そう聞いた——女の子が、ルドモンドで最も重たい真鍮眼鏡を持ち上げていた。
『ショーンの身を守りたい』
紅葉からそんな言葉を聞く日が来るなんて、思いもしなかった。
「……僕を?」
「だって、だって次はショーンが駅に吊されるかもしれないんだよ!」
「………僕があっ!?」
「うん………考えたことないの?」
「なんで僕が、関係ないじゃん!」
ショーンは動揺して軽く叫んだ。尻尾をせわしなくバタバタさせて、両腕をオーバーに上にあげる。
紅葉もヒートアップして、双方声が大きくなった。
「分かんないよ、何をするかわからない連中だよ? 次はアルバそのものを狙ってくるかもしれないじゃない!」
「アルバを? ……まさか!」
「なんでよ、分かんないじゃない! 町長だってあんな風になるって、事件の前まで誰も思わなかった」
「だからって」
「もしショーンが列車に轢かれても、サウザスで助けられる人は誰もいない……!」
紅葉の瞳に涙が浮かぶ。
「そんなことが起きる前にっ、守らないといけないの!」
「…………だからって……なんでそこまで」
戸惑う顔を浮かべるショーンの両肩を、紅葉がぎゅっと掴んだ。
「だって、私は——」
「——おいっ、大変なことが起きたぞ!」
リュカが巨体を揺らし、部屋の扉を勢いよくバシン!と開けた。彼はいつもの作業服と違いスーツを着こみ……なぜか左手には大きな鉄の戦斧を持っている。
「えっ」
「……リュカ?」
3人はしばし呆然と、互いの瞳をパチクリ見つめた。
「……………いま、入ったらまずかったか?」
「別にまずくない、まずくない」
「何があったの、リュカ」
ショーンはブンブン首を振り、紅葉は鉄の戦斧をキッと見つめた。リュカはドアの扉を閉め、内緒話をするかのように周囲を見回し、「ちょっと話したいことがある」と小声でいった。
時を今日の夕方に戻して、3月8日水曜日の午後4時すぎ。
新聞記者アーサーが帰宅した後、『鍛冶屋トール』は嵐が去ったかのような感覚に陥っていた。
エマはブツブツ呟きながら応接室を入念に掃除し、いつもはすぐ作業場に戻るはずのオスカーは、ソファに座ったままジッと考え込んでいた。
「……今すぐ甲冑を確認する必要がある」
「オスカー!ダメよ駄目!危険ですっ!」
「………しかし、製作者として確認義務が……」
「だとしても警察がとっくに捜査してるでしょう、町長は消える直前、あのお店にいたんですから!」
「……だが、あの甲冑の状態が今どうなっているのか……確かにあの位置にあるのは不自然だった……」
「たとえ何かあったとしても、州警察に任せるべきです! そのためにクレイト市からいらしてるのよ」
夫婦喧嘩を聴いていたリュカは、どちらの意見にもグウと唸った。甲冑の状態は確認したいが、この状況でノコノコと店に乗り込むのは危険すぎる。
「……では、州警察に一筆書こう…………リューカス、役場に持って行ってくれるか」
オスカー直筆の手紙を持たされたリュカは、一張羅のスーツを着て帽子を被り、州警察のいる役場へ向かった。
「ハァ……今さら持ってこられてもねえ、もう調査したよ」
手紙を受け取った州警察の対応は、案の定、芳しくなかった。
受付にはピンクの制服を着たのが2人。手紙を受け取った方は億劫そうにしていたが、左にいる後輩らしき方は、なぜかウキウキと顔を綻ばせていた。
「うおっ、『鍛冶屋トール』ってオスカー・マルクルンドの店じゃないっすか! ジブン、彼の大ファンなんすよ!」
「ト、マ……なんだお前、知ってるのか?」
「先輩知らないんすか? イヤー、彼の作る武器は芸術品すよ! そっか、サウザスですもんね。ウワーお店見たいなあ!」
「………はぁ」
先輩警官が鬱陶しそうにため息をつき、リュカの方へ向き直った。
「とにかく、あのレストランはとっくに調べているのでねえ」
「……甲冑はどうなってました?」
「確かに階段そばの、ぶつかりそうな場所にあったけどねえ。危ないけど──それはサウザス警察が注意すべき問題だろう」
「無傷でしたか?」
「当然さ、何も証拠は出なかったよ。もちろん血もついてない」
「なるほど……」
「まあ上に報告しておくけど、聞いてくれるかねえ。今もっとヤバイもん見つかっちゃったモンだから」
リュカは知らなかったが、この時ちょうど病院でユビキタスの【星の魔術大綱】が発見されて、大騒ぎしていた頃だった。
「………そうですか」
──まずいな。
このまま大人しく引き下がったら、真相が闇に葬られる気がした。
リュカは、チラッと左にいる後輩の方を見た。
彼となら、まだ望みがある。
たとえ問題が無かったとしても、自分の目でちゃんと確かめたい。
浮かれた様子の彼とパチリと目が合い、そっと目配せし………すると、彼は口角を少しあげ、面倒くさげな先輩の肩を、ポンと軽く叩いてくれた。
「先輩! 念のため、自分が調べてくるっス!」
「はあ〜? …………チッ、しょうがないか」
「マルクルンドさん、ご同行お願いしますっス!」
彼は跳ぶように奥の部屋へ行き、分厚い書類をガサゴソ持って戻ってきた。
そしてリュカの隣に飛んでいき、ビシッ、と頼もしく敬礼した。
「じゃあ先輩、行ってきます! ウス!」
かくしてリュカは、角刈りマッチョの兎の青年警官を伴い、レストラン『ボティッチェリ』に向かう事となった。
「いや〜上手く行きましたね!……えーと」
「リュカだ。本名はリューカス・マルクルンド」
「自分はペーターっす。ペーター・パイン。芝兎族の」
「よろしく、俺は……」
「存じてますとも、土栗鼠族でしょう? サウザスでは多いっすよね!」
「うん、君の出身は……」
「見えてきましたよ、レストラン『ボティッチェリ』!」
数日ぶりにみる店は、いつもより威圧感があった。
臆するリュカを尻目に、ペーター警官は悩むことなく、裏口に回りベルを押した。裏口はレストランではなく、自宅側の扉にあたる。
「水曜で店は休みっすけど、自宅なら誰かしらいるでしょう」
L字型をしたこの建物は、表側がレストラン、裏が自宅になっている。自宅には次男と三男、六男が住んでいるそうだ。
しばらくしてコックコート姿の次男、ピエトロが出てきた。さすがオーナーシェフだけあって、休日でも仕込み作業か何かしているらしい。彼のエプロンには、赤いトマトの果汁が飛び散っていた。
「スミマセン、ラヴァ州警っす」
「なんですか、警察ならもう調べて——リュカ君」
リュカの姿を見て、ピエールは顔を硬くした。マズイ、何か言い訳を用意しておくべきだったとリュカは後悔し、背中に脂汗がジョワっと染みた。
「イヤー、失礼します。帝国調査隊クラウディオ・ドンパルダス様の命によりやってまいりました。ペーター・パインと申します!」
(……帝国調査隊!?)
リュカは愕然としてペーターの背中を見た。可愛らしいウサ耳頭の彼の背中は、隆々の筋肉が盛り上がっている。
「クラ?……ああ、州警から派遣されたアルバの……そういえば新聞に出てたな」
「はいっ。目下クラウディオ様は、アルバならではの方法で、今一度、事件を再調査すべく尽力中であります。私どもはクラウディオ式、そうアルバ式調査の事前準備のため、ただ今再訪問しておりまして、ご協力お願いできますでしょうか!」
「……リュカ君はなぜ」
「はッ、それはですね、クラウディオ様の独自調査により、マルクルンド様はたいそう腕の立つ鍛冶師で、サウザスの内装に慣れてらっしゃるということで! 捜査に協力していただいているのですよ。何しろアルバ式は物を動かすこともありますので!」
「いや、オスカーはともかく息子のほうは……」
「じゃーお邪魔するっス!」
筋肉隆々の兎警官は、寸分も邪気のない笑顔で敷居を跨いだ。リュカは今までこんなベラベラ嘘をつく人間を、サウザスで見たことがない。
(俺は……とんでもないヤツに目配せしちまったのか………?)
事前にショーンに相談しておけば良かったと、リュカはひどく後悔しながら、ペーターの後ろで工具を持ち、レストランの階段を上がって行った。